蛟眠る 第九話
 其の弐

夕刻――
小十郎は城を辞すために門へ向かう途中で突然後ろからぐいと袖を引かれた。驚いてそちらをみれば、ここにあるはずのない白魚のような手が袖にすがっていた。ギョッとしてその先を追えば、まず女物の着物袖からわずかに覗く白い手首がまず目に入った。そしてその袖をさらに辿れば、腕があり方があり、そしてその先には顔があった。
その顔を見て、小十郎は驚く。
「蔦殿」
蔦は唇を引き結んで、ぐいと無言で小十郎の袖を再び引いた。小十郎は引かれるままに、蔦についていく。
しばらく進んで、角を曲がり、人気のないところへ辿り着くと蔦は小十郎を解放した。しかし、しばし男へ背を向ける。何か考え込んでいるような、小十郎がはじめてみる猫背だった。
しばらくして、くるりと蔦が向き直った。見れば、顔には緊張の色がある。
「小田原まで打って出られるという噂があります――本当ですか」
蔦の口から出たのは、その言葉だった。小十郎はすぐには答えなかった。蔦が続ける。
「豊臣の軍勢と対決する、と。本当ですか」
「一両日中に政宗様がご決断なさる」
蔦は愛姫付きだ。彼女が働くのは城の表ではなく奥とはいえ、そこはたしかに城内に違いない。軍議のこぼれや気配が噂になるのは不思議ではない。いや、どちらにしろ、いずれわかることだ。隠すことはない。ましてや蔦の性格を思えば、どこかにこれ以上漏らすとは考えにくい。だから小十郎は事実のみを短く伝えた。すると、蔦が胸の前でぎゅっと手を組んだ。
「片倉様は攻め上がることに反対なさいましたよね?」
小十郎はその言葉に、思わず目を見開いた。蔦の言葉は何を意図しているのだろうか――
「成実殿が攻め上がるご提案をなされた。一応、ひとつの意見として慎重になさることは申し上げたが――」
果たしてあれは反対と言えただろうか。
だが小十郎のその言葉に蔦が異様なほど強く反応した。
「反対なさらなかったんですか? 成実さまのこともお止しなかった?」
そのままの勢いで蔦が詰め寄る。小十郎はそれを見下ろして、眉を寄せた。
「御判断なさるのは政宗様だ」
「豊臣は恐ろしゅうございます」
小十郎の言葉の語尾にかかるように、蔦が言った。手を組んだまま、蔦は小十郎に訴える。
「恐ろしゅうございます――織田勢亡き後の、破竹の勢いを御存じないとは言わせませぬ。日の本のほとんど半分を平らげております。わすかの期間で!」
「それはもちろん、知っている」
小十郎は蔦を落ち着かせなければと思った。この女人は戦に怯えているのだろうか? 上手い言い回しを考えている間に、蔦が先んじて言葉を重ねる。
「奥州には伊達の縁者が多くいらっしゃいます」
小十郎は思わず眉間の皴を深くした。蔦の意図が未だ読みとりにくい。
「政宗様が奥州筆頭となることができたのは――それも大きな要因の一つではありませんか? 政宗様の撫で切りのことは除いて、奥州では他家を潰そうという動きが他よりも小さい気がいたします――先だっての羽州の最上との戦に和議がなったのも、最上殿が政宗様の伯父上であらせられるからではありませんか?」
小十郎は蔦の言いたいことを理解するとともに、絶句した。
この女人、どこまで戦や諸国のことを知っているのだろう。最上と戦になり、和議になったことは恐らく子どもでも知っている。だが、戦に関わらない、奥付きの、もとは町人の娘が果たして国主たちの血縁関係に言及するだろうか。たとえ諸国の複雑な繋がりを知っていても、女人や下々の者は普通であればそこまで考えなくてもよい――それをするのは政宗以下、小十郎たち武人でもある城に仕える男の仕事である。
小十郎が衝撃を受けている間に、蔦は言葉をつづけた。
「仙道を制して、白河の関の向こうに――どれだけ政宗様や皆さまがあてにできる縁故がありましょうか。常陸の佐竹殿でしょうか。そこから先は? どうなるのです?」
「蔦殿……」
「首尾よく進んだとして、兵糧はどうするのです? 同盟先からいただくのですか? 国元から届けるには、進むほどに辛くなります。それに――」
「それに……」
小十郎が思わず蔦の言葉を繰り返すと、蔦はぐっと彼を見つめる目に力を込めた。
「豊臣の物量は、恐ろしいほどだと聞いております。伊達の力はそれに勝り、上回るものでしょうか?」
――確かにいまの伊達軍には勢いがありますが、それは豊臣の力を圧倒するものだと言えるのか。
蔦の言葉は、図らずも軍議で小十郎が自ら発した言葉に重なった。
小十郎は再びその言葉に驚き、女人を見下ろす。すると、それをどうとったのか、蔦が青ざめた。
「政宗様にお力や才がないと申し上げているわけではございません。ただ、量の差というのは時に質を上回るもの。寡兵をもって巨大な勢力を出し抜いた先例はたしかに知っております。けれど、それはあくまでも稀な話に私は思えるのです。武力、機動力、知略、地の利、天の采配……どれがかけてもきっとだめなものです」
「蔦殿……」
「己が身を弁えない発言、どうぞお許しください。でも、どうしてもどうしても、嫌な予感がするのです――」
小十郎は小さく左右に首を振った。
「……矢内殿から何かお聞き及びか」
蔦の父は城下の検断職だ。しかも彼は、城下にあって特別な検断にあると言っていい。町の格は形式上高くはないが、伊達の地が今よりも南方にあったときから存在する町を預けられているのだ。大町というその町は伊達の本拠がその地を移す度にひとつひとつ従いついて来た町である。市も別格、通る人馬や商いの品も蔦の父が把握している。さらに蔦の先祖はその昔は町の検断だけではなく郡方まで任されていたという話もある。そんな先祖を持ち、そんな町を預かる男の娘が、なにも知らないはずはない。
そしてそれとは別に下々のものたちのあいだにも西から流れ着いた何か噂話があるのだろう――そう思って後者だけについて聞くと、やはりというか、蔦はひとつ頷いた。
「豊臣は日の本を富国強兵の国にすると。しかし志がいささか極端で――恐ろしい、と」
「物量や兵の差も?」
「領地が広がったことや、同盟で取り込んだ国の援助もありましょうが、どちらも途切れることがないと」
ほぼ、間違ってはいない話だった。逆に言えば、下々が気にするほどその力は強大で見えやすいということでもある……。
小十郎は思わず黙りこむ。
そしてしばらくのち、蔦にこう言った。
「ご忠告、たしかに。この胸には刻ませていただきます。しかし政は我々――政宗様が一切を取り仕切られる。それに変わりはない。俺は既に、御忠告はさせていただいた。これ以上は――」
そこまで言った所で、蔦が落胆の表情を浮かべ、俯いた。それから苦悶の表情を持って小十郎を見上げ――小十郎の顔に何か見つけたかのようにはっとした。
小十郎はその表情に眉を寄せる。すると、蔦は逡巡の表情を見せ、顔をそむけた。だがそれもわずかの間のことで、すぐにキッと小十郎をあらためて見上げてきた。口元には強い緊張の色が読みとれる。
「片倉さまは――もしや、力試しをしたいのでは?」
蔦の言葉は唐突なものであった。小十郎は意味がわからず、困惑する。蔦はまるで幼い子供を諭すかのように、背の高い男にひとつひとつ言葉を選びながら語りかける。
「ご自分が傅役を務められた政宗様を通して、腕試しをなさりたいのでは? 政宗様を天下へ挑ませることで、ご自分もまた天下に力を試そうとお思いなのではありませんか?」
「何を」
無礼な。
反射的に浮かんだ言葉は、しかし喉に張り付いて音になることはなかった。
「民や兵のこと――ましてや本当に政宗様のことをお考えならば、今一度御再考を提案するべきです。いえ、片倉様も今一度、どうぞご自分の思いを冷静にお考えください」
「――」
小十郎は動けなかった。
政宗を通して腕試し? なんということを言うのだ、この女は。自分は、政宗を守るためだけに存在してきた。それなのに――そう思った。だが、その思いが言葉にならない。
本当にそうか? この度、強く止めなかったことは政宗のためになるのか? 伊達は豊臣に勝てるだけの物量、兵力、あるいはあらゆる力を持っているのか? 自分はそれを、冷静に判断したか? そしてそれを踏まえたうえで言葉を、言葉の力と数を選んだか?
そして蔦は、この女人は戦火に怯えて小十郎を呼び止めただけなのか? はたまた、彼女の頭脳は冷静で明敏で、そのために軍師たる小十郎へ忠告をしたのか? それすら小十郎には判断がつかなかった。
――小十郎、と遠くに基信の声が聞こえた気がした。
その声の向こうで、さらに蔦が言い募った。
「もし私が出過ぎたことを申し上げているのであれば、もし私が伊達の力を侮っているのならば、どうぞこの場でお斬り捨てください」
小十郎は当惑して女を見下ろす。女の顔は青ざめていたが、目には強い意志が宿っていた。そして小十郎は振り払うようにひとつ首を振って、女の横を抜け、足早に城を後にした。女が小十郎を追うように振り返る気配がした。
――進軍するにしても、しないにしても、俺にはやらねばならないことがある。
それだけを考えた。
小十郎は心の片隅で女が追ってくるのではないかと思いもしたが、それは実際には起こらなかった。

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