蛟眠る 第九話
 其の壱

豊臣秀吉の勢力が西より伸張し、小田原へと手を伸ばそうとしたのはそのしばらく後のことだった。
その頃には政宗はついに奥州筆頭を標榜するだけの領地と――力を手に入れていた。羽州にあっては最上義光がその勢力を阻んでいたが、奥州にあっては並ぶものなし――それはまぎれもない事実になっていた。
このまま南下すれば、豊臣勢といずくかでぶつかるのは必至――家中が主の勢力拡張に待ったをかけたのは、まさにその時であった。
「豊臣方からも接触がありました。軍門に下れば所領は安堵する、と」
綱元がそう告げたのは、幾度目かの軍議の場であった。その知らせは政宗そして三傑は事前に知っていた。政宗は事前に、各々考えろ、と言った。だが知らなかった者たちのざわめきは大きかった。
ざわめきを制して真っ先に声をあげたのが成実であった。
「オレは、そんなのは嫌だね。所領は安堵するってどの範囲さ。全部? あやしいよ。ともかく配下にしまえば、ウチが手にした部分は楽々手に入るって腹だろ。気に食わないなぁ」
「つまり成実殿は――」
「真っ向ぶつかる」
妙に好戦的な顔をして国主の従弟はそう言った。そして彼はそのまま、辺りのものを見回して言う。
「ここまで勝って来たんだ。これからも勝つ。それだけだ」
簡単だろ――言外に続けられた言葉に、場が色めき立つ。それは不安ではなく、高揚のざわめきであった。
輝宗の死以降、伊達家の家臣団は若返るばかりであった。輝宗時代からの最古参のひとりとなっていた綱元の父左月斎も先の戦で「若」の退路を守って死んだ――齢は七十と三であった。まさにそれは古きが去ったという象徴的な戦死であった。古きが去り、新しきが来る――それは若い国主たる政宗と対になるような家臣たちであった。その象徴が、伊達の一門でもある成実である。
若い彼らには広がった版図は誇りであり、また自信であった。
「それに、一回ぶつかれば、もっといい条件が引き出せるかもしれない」
右手でこぶしを作り、それで左の掌を打って成実は言った。一理ある、とどこかから賛同の声が飛んだ。確かに成実の言うことは、武力を用いた交渉のひとつに当てはまる。
が――
「小十郎殿はどう思われる」
綱元の声が小十郎に意見を促した。見れば、政宗も成実もこちらを見ている。成実はどうだと言わんばかりの顔で――政宗はそれより冷静だが、従弟の意見に心動いた景色が見て取れた。
確かに今の伊達には力と勢いがある。蘆名を衰退せしめ、相馬を押し込め、最上と佐竹すら牽制する。政宗の父祖にすら成せなかったことがいま、成せている。
――奥州筆頭。
奥州にて政宗に並ぶものはない。
ならば成実の言うことも可能であろうか――不可能ではないかもしれない、という考えが小十郎の脳裏をかすめた。だが、成実の言に乗り、この場を満場一致で攻め上がるという方向に持っていってもいいものだろうか。
その時――上洛、と、かつて幼い政宗が基信のもとで呟いた言葉が不意に小十郎の脳裏に響いた。
幼いながらに野心に満ちた言葉。基信はかつてその言葉に満足そうな顔をした。報告を受けた輝宗は「天晴れな子よ」と喜び、梵天丸に自分を超える器量を見出したと聞く。
政宗には変わらず野心があり、伊達軍にはいま勢いと力があった。それがあれば……確かに不可能ではないかもしれない。その可能性と思い出の中にある男たちの期待が、慎重にと己に説く小十郎の思考を鈍らせ、諌める口わずかに重くした。
「――交渉はともかく、打って出るのはまだわずかに早いかと思われます」
小十郎の言葉に、場が正しくざわめいた。綱元が眉をあげ、成実が驚いた顔をする。政宗はしっかと小十郎を見据えていた。しかし誰が「わずかに」という言葉を気にとめただろうか。時期尚早という諌言をひどく弱めるその言葉に。
「さらに、打って出てこちらに良い条件を引き出すのであれば、最低でも五分に持ち込む必要があります。どこでどのように、あるいはどこならば五分に持ち込めるのか――確かにいまの伊達軍には勢いがありますが、それは豊臣の力を圧倒するものだと言えるのか」
小十郎はそこまで言って、政宗と成実を交互に見、続けた。
「それをしっかりと考慮に入れた上で、『どこまで進まれるのか』を、御判断されるべきかと」
小十郎は結局、はっきりと進軍には反対せず――どこまで進むかを考慮せよ、と言った。進むな、とは言わなかった。それとも場の空気に呑まれて、言えなかったのか。
しかしそれでも冷静になった一部の者たちが軍議を真っ向ぶつかるという空気からわずか、違う選択の方へ傾け、しばし議論となった。
だが結論は出ず、結局交渉の手段を武力か通例の外交のどちらかにするかは国主政宗へゆだねられた。

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