蛟眠る 第八話
 其の弐

事実だけを確認すると、小十郎は綱元のもとを辞した。綱元は最後まで思案するかのように顎を撫でていた。
城は相変わらず寒い――あるいは剣呑な空気に包まれていた。
小十郎は政宗の居室の前に辿り着くと、いつもより慎重にそこへ膝をついた。
「政宗様、小十郎にございます」
「入れ」
一拍置いて、戸を引けば政宗は庭を見ながら煙管をもてあそんでいた。――中へ進んだ小十郎のほうには一瞥もくれない。
「綱元に呼ばれたか」
「――は」
どう切り出したものか――そう考えたのは一瞬のことで、切り出したの政宗だった。主は短くいう。
「そういうこと、だ」
「……」
さわ、と風か吹いて庭の木々を騒がせた。それからやにわに政宗は立ち上がると、戸を引いて庭の景色を遮り、筆と紙が揃っている机の方へ向かってしまった。小十郎には背を向けたままだ。
ふと小十郎は、部屋に満ちる「新しい香り」に気付いた。だが知らない香りではない。新しく削った木の香り――そして、藺草の鼻をつく強い香り。目を落とせば、床板は見えないが――畳が全て真新しい。目はすべて綺麗に整っており、そっと触れても指がひっかかることはなさそうだ。畳縁の色も鮮やかで、身分の高いものにしか許されない紋様の金糸と銀糸はあまりにも美しい。すべてが不自然だった。それらはあまりにも新しすぎた。主の気まぐれで調度品が入れ替わることはあっても、ここまでの事はなかった――この部屋のすべてが新しいものになっており、部屋全体がわずか三日の間に小十郎が知らないものになっていた。
小次郎と彼の傅役はこの部屋で斬られたという。
では、木を削り、畳をすべて変えねばならないほどの惨劇がここであったのだろうか。吹きだした弟の血潮は兄である政宗の腕を伝い、刀から零れ、藺草を穢し、板張りをどす黒く染めたのだろうか。あるいは傅役の赤い飛沫血は襖縁だけではなく柱の高いところまで届いたというのか。血を被った調度品は炎の中へくべられたのだろうか。
小十郎は幼さの残る男児を思い出そうとした。父輝宗の次に、政宗を愛し慕った子供の顔だ。そして、かつての自分と同じ傅役の任にあった男の顔を。
「小十郎」
それを遮るように新しいものへ目を落とす小十郎へ、ついに政宗が声を掛けた。
顔をあげれば、隻眼がこちらを見据えていた。その目はまるで、獲物を見つけた鷹のようで――小十郎はわずか怯みかけた。だがその目、その気配には覚えがあった。
――小十郎、やれ。
もはや面影が消えたと思われた、梵天丸――あの日小十郎を試すように右目をえぐれと言った政宗が、そこにいるのだ。
そして小十郎はあの時以来はじめて、髪と眼帯の下にある右の目がどんな色をしているのかと考えた。病み衰えた目の玉か、がらんどうの空洞か、それとも。そこにあるそれが、政宗の本当の「何か」を隠している――そんな気がしてならなかった。だが、もはやそれを知る術を小十郎は持たなかった。小十郎が知りそして今目の前にあるのは、炯々として鋭い光を宿す左目だけだ。
「何か聞きたいことはあるか」
妙に通る声で言われて小十郎は目を伏せた。そして、ひとつ決めて目をあげて、言う。
「――では逆にお聞きします。政宗様はこの小十郎の耳に入れておきたいことは御有りか」
攻防。
一瞬のことだった。政宗はじっと左の眼で小十郎の目を見た後――ふとその目に込めた力を弛緩させた。
「Nothing special――なにもない」
返答はそれだけだった。


結局その一件以来――伊達家はついに政宗のもとに一本化された。
担ぐものをなくしたものたちはもはや従うしかない。もとより、彼らに主に不満を抱く権利などなかったのだ。主の首を挿げ替えようなどとは畏れ多い。本当に不満ならば、出て行けばよい。奥州の地にあって、伊達と争う気概のある家はいくらでもあった。もっといえば、自らが立つという手段もあったはずだ。だが、ここを出て行った所で、この若く苛烈な主はそれを許しただろうか。おそらくはほとんどのものはそれを恐れたに違いない。だからそんな者はいなかった。
だが同時に政宗は長く恐怖を敷くことはなかった。
彼もまた、優しき輝宗の息子であったのだ。
民を想い、世を憂う。だがそれは決して厭世的なものではなく、己が手によって世を変えようという意思へと繋がっていた。それはまさしく、彼が父から受け継いだ美徳のひとつ――そして、さらに大きな彼自身の佳処であった。
治水、開拓、村落の整備。若いながらに父祖の土地を守り育もうとするその姿に、家臣たちの緊張は解されていった。老いた重臣を労い、若く能力のあるものを登用する。家族を亡くした者があれば、自ら筆をとって慰めることもあった。
そしてそれら佳処は、皆の記憶から彼の哀れで優しい弟の思い出を押しやり、やがて忘却の彼方へと攫うほど大きくなっていったのであった。

 目次 Home 
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -