蛟眠る 第五話
 其の参

蔦に礼を言って姉の元へ返した後――優しい手を引き離すのに添えた手に少しだけ力を込めてしまったことに蔦は気づいただろうかと小十郎は思った――、部屋に戻った小十郎は休む間もなく、さらに深く落ち込む暇もなく、遠藤基信に呼び出された。
向かった部屋の中で、基信は静かに机と向き合い、筆をとっていた。日が落ちた部屋はすでに暗く、いつかの輝宗の部屋と同じように灯りが部屋を焼いていた。
入れ、と言われて戸をひいた小十郎はそんな姿の基信を見てわずかに戸惑った。
「出直して参りましょうか」
「いや、いい。息子に手紙を書いていたところだ」
「千熊殿ですか」
「ああ、年貢のことで少し、な」
基信は小十郎へと向き直らず、筆をすすめている。小十郎は邪魔にならぬように控えていた。
「小十郎――」
そんな基信が筆先に目を落としたまま言った。
「はい」
「そこにお前が目を通すべきものが」
声に言われて見回せば、部屋の一角に書状や書がズラリと並んでいた。
「まだ見せていなかったものだ」
訝りながらそれを眺めている間に、筆を置いた基信は小十郎へと向き直っていた。
小十郎がそれらを手に取れば、それは長年基信が輝宗の執政として諸国の動向を書きとめたものややりとりの書状そのものであった。
「古くて使えないものもある、とうに死んだ人間とのやりとりもある。が、いずれ役に立つだろう。持っていくといい」
「……」
小十郎は眉を寄せた。政宗の家督相続とほぼ並行して、小十郎も基信から諸々の仕事を引き継いでいた。しかし引き継ぎが終わった後もわからぬことがあれば基信のもとを小十郎は訪れていた。
基信はもともとは武家の出ではない。寺の息子だという。仏門と神道の違いはあれど、武家出身ではないところも含めて基信と小十郎の境遇は少し似ていた。基信が小十郎に目をかけた理由のひとつにはそれがあるかもしれない。だからこそ小十郎には他の上のものたちよりも気安く、訪ねやすい。
「逐一わたしを訪ねていては、お前も成長できんだろう」
基信は笑いながら言った。わずか目元が寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
「……それは訪ねてはならぬ、ということですか?」
「いや、そろそろ本物の一人前になってもらわぬと困る、ということだ。――お前は若……いや、殿の右目となるのだろう? その右目それ自身がキョロキョロと定まらないのはなんとも心もとない」
言われて小十郎は、もっともでございます、と頭を下げた。基信はひとつ頷いて、また口を開いた。
「――例えば、先の愛姫様の乳母たちの処断の件。あれが正しかったかは私にはわからない」
「――といいますと……」
「あれはあちらにも戦をする理由になりえた、ということだ」
小十郎はまっすぐに基信を見た。
「田村、ないし相馬から間諜があった、と言ってこちらが戦を仕掛ける理由になったのはお前もわかるな。しかし翻ってみれば、田村には伊達は己を裏切りと見るのかと同盟を破棄される理由にもなりえたし、相馬にとっても田村は親戚だ。そこを庇う理由で戦を仕掛けてきたかもしれない」
「……」
「綱渡りだった、というやつだ。あそこで済んでよかった。書状が曖昧だったのにも救われた、田村が騒ぎにしなかったことにもまた救われた。私はそう思う。……殿は血気にはやる所がある」
――そうなれば政宗様は敵方か己が滅ぶまでの戦を起しただろう。輝宗様なら違っただろうが。
言外の基信の言葉を聞いた気がして、小十郎は思わず顎を引いた。
「――わたしは、若に近しいわけではない。わたしは輝宗様の執政だ」
「……?」
基信は静かに言う。小十郎にひたと目を当てながら。基信の顔が灯りになぶられるのを小十郎はじっとみた。
「お前は馬に鞭をくれたり、早く駆けさせるのがひどく得意だ。だが手綱もあることを忘れるな。手綱さばきが甘ければ、馬もお前も死んでしまう――わかるか」
「……はい」
ふっと基信が笑った。安心したかのような笑みであった。
「わかったならいい。お前はお前のいるべきところで、すべきことをしろ。そして激賞することだけが己が任ではないこと、決して忘れるな」
それが基信から小十郎への最期の助言となった。


輝宗の遺骸は虎哉和尚の資福寺へ葬られた。和尚は子のために自分を呼び寄せた輝宗について淡々と、だが思い出豊かに語った。実は輝宗自身も和尚に教えを請うていたことを多くの者がそこで初めて知った。かつて輝宗が黒龍を小十郎へ下げ渡したとき刀身の銘について「和尚に叱られる」と言っていたのはそういうわけだったのか、と小十郎はぼんやりと悟った。
そして、それから数日後、真新しい墓石の前で遠藤基信ともう二名の者が、輝宗のため黄泉へと下った。
基信の息子は宗信と名を変え、遠藤家の家督を継いだ。
輝宗は不惑を少し過ぎ、基信はそれより十多い五十路を超えたところであった。

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