蛟眠る 第五話
 其の弐

政宗の居室の次の間にて小十郎は主を待っていた。今はまだ輝宗と家族の時間である。小十郎が安易に踏み込んでいい時ではない。だから今は待つしかなかった。
だがそこへ、予想よりも早くふらりと政宗が戻ってきた。
「政宗様――」
「……、一人にしてくれ」
政宗は静かにだかはっきりとそう言うと、自らの部屋へと消えた。小十郎は逡巡の後――立ち上がり、次の間を後にした。
夕暮れの日が射す廊下をしばらく行くと、三つの影がこちらへ近づいてきた。
一つが先んじて、二つは従っている。
小十郎は反射的に身を引いて道をあけた。
「――小十郎殿」
そのまま行くかと思われたそのひとは、小十郎の近くで立ち止った。柔らかな、少女の面影を残す声。それで小十郎は影のひとつがだれであるかを悟った。
「愛姫様」
「お義父さまとお会いしてきました」
沈みつつも気丈な声だった。思い出を語ろうとしたのか一瞬わずかに口を開いた愛姫だったが、ふと小十郎の顔を見てやめたようだった。思い出がこぼれるのを恐れたのかもしれない。輝宗はまた娘ができたのだ、と言って嫡男を困惑させたこともあったのだ。――輝宗は義姫との間にできた娘を二人、亡くしていた。
「政宗さまはお部屋に?」
「はい。ですが、一人にしてほしい、と」
「……そう」
愛姫は一瞬うつむき、考え込むように形の良い顎に右手を添えた。
「でも、お邪魔するわ」
小十郎は驚いた。しかし顔を上げた愛姫は稟とした表情で廊下の先、政宗の部屋の方を見ている。そして彼女は、小十郎が何かを言う前に足を踏み出していた。お付きの女二人も従う――一人は喜多で、もう一人は蔦であった。喜多はともかく蔦の姿に虚を突かれた小十郎は反論を忘れてしまった。思わず女たちを見送ってしまった後、無礼にならないよう気をつけながら女たちを追った。
小十郎がたどり着くと、愛姫はすでに政宗の私室へと続く襖の前にいた。
「――政宗さま、政宗さま」
優しい声だ。だが小十郎は不安だった。あの事件以来、疎遠であった幼い夫婦。夫が妻の元を訪ねることもなかった。妻は――時折、遠くから夫を見ていることがあった。夫はいつも、それに気付かないふりをした。無視していた、と冷たくいうこともできるだろう。それがどう作用するのか、小十郎には全くわからなかった。
応えはない。
「愛姫様、失礼ながら――」
小十郎は案じた。一人にしてくれと言った主のことではない。案じたのは主の優しい妻のことだ。気性の激しいところのある主が、愛姫に何をするかわからない――そう思って声をかければ、愛姫は肩越しに振り返った。そして優しく、どこか悲しげに笑う。
「大丈夫ですよ」
だが声色には、何かを決意し覚悟したような強さが含まれていた。
そしてまた愛姫は襖へ――正確にはその向こうへ向き合う。
「小十郎、大丈夫ですよ」
それを不安げに眺めていれば、そう言ったのは喜多である。姉に目を移すと、どうしてもそれより下手に控えている蔦が目に入った。蔦は心配そうに愛姫を眺めていたが、喜多の声にまず彼女へ目を移し、それから喜多の視線を追って茫洋と小十郎を見上げた。視線がパチリと音を立てたところで、蔦は目が覚めたようにはっとした。だが先に目をそらしたのは小十郎である。
「……」
小十郎は愛姫付きの二人に頭を下げると踵を返した。しばらく前だけを見て歩けば、急ぐ足音が後ろから追ってきた。
「片倉さま――片倉さま」
蔦の声である。立ち止まり、息を詰め、そしてそれを整えて振り返る。蔦が打ち掛けの裾をさばいてそこへ止まった。
駆けてきたせいかわずか乱れた息をまま蔦は言った。
「姫様は政宗様とお話をしておいでです」
小十郎は思わず眉を上げた。
「一人にしてくれと仰っておいでだったのだが……」
「政宗様がご自身で戸を開けて、姫様を中に。喜多さまが控えておられますから大丈夫です」
小十郎は蔦の向こうへ目をやって今来た廊下を見た。それから、すぐ近くにいる蔦へと目をおろす。
「それを伝えに?」
蔦はこっくりとうなづいた。
「喜多さまは姫様のお側にいなければなりません」
そこで蔦は目をわずかに泳がせた。そして小十郎と目を合わさずに言う。
「ですが、小十郎さまも心配だと」
「……」
別に俺は、と言いかけて、小十郎は深く深く息を吐き出した。その息の音に蔦が見上げてくる。
「ひどく、お疲れのようです」
銃撃が終わり、父の元へ駆け寄った息子に、近づくものは誰もいなかった。小十郎も成実も動けなかった。……その後、政宗は銃撃で死んだ畠山の遺骸を八つ裂きにし、さらに縫い付けて磔にし衆目に晒すように命じた。
仇討とはいえ、人倫に悖る。が、……。
人倫、とは果たして何であろうか。
乱世にあっては、それが見えなくなることがある。いまが、まさにそうだ。畠山は確かに子の前で父を殺すということをした。しかしはじめに踏み外したのは――確かに政宗だ。
川辺できいたせせらぎが耳から離れない。兵が河原の砂利を踏みしめる音、石の感覚、主君の肩の強張り――怒号、銃声。煙の臭い。血。親を亡くして、泣く子の姿。
瞼に焼き付く光景と音に気を取られていると、ふと左頬にひいやりとした物がふれた。
気づけば、政宗の初陣の時に受けた消えない傷のあたりに蔦がふれていた。
小十郎はその手にそろそろと自らの利き手を重ねた。小さく、ひんやりとした、だが優しい手だ。それがひどく、ありがたい。目の奥に溜まる熱すら吸い取ってくれる気がする。
「……、哀しいのは、俺ではない」
ぽつりと言えば、蔦が泣きそうな顔をした。思えば蔦も、父重定を通じて輝宗と縁があった。輝宗はすでに政宗に家督を譲っていたから、民としては憂いはないはずである。だが。
――儂はあやつが天下をとるところをきっと見る。
かつて自らそう言い、それが叶わなかった父としての輝宗を、小十郎は知っていた。
「……右目にならねば……」
蔦の手の中で、震えるように言えば蔦はもう片方の手も小十郎へと延ばし、この時だけはとばかりに、もう一方の頬にも触れてきた。あるいは、そうして彼の顔を覆うようにすることで、周囲の目から彼を隠したのか。
――梵天成天駆独眼竜。
『梵天、独眼の竜となりて天翔けよ』
胸に刻んだその言葉が痛んだ。

 目次 Home 
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -