蛟眠る 第五話
 其の壱

……狩りという名の遊びに出たはずの一行が輝宗の遺骸を伴って城に戻れば、その妻で政宗の母の義姫が待っていた。義姫はまさに攫われる夫の姿を見ていたのだ。
最上の娘とはいえ、輝宗にほれ込んでいた義姫は夫の遺骸を信じられないという顔で眺めた後、わっと泣き出してそれにすがった。
――目を覚ましてくださいませ、殿、殿……。義も殿もまだ白髪ではありませんよ……。
義姫は数度輝宗を揺さぶり、その胸の上に伏して泣き続けた。
どのくらい時間が経っただろう。その横で、呆然と立ち尽くしていた政宗を見つけた義姫は、突如立ち上がりその頬を打った。乾いた音が響いて、政宗は衝撃で顔を母から背ける形になった。しばらく明後日を茫然と眺めた後ゆっくりと、打たれた頬も押さえず母へ向き直った嫡男の顔へ、形のないもう一撃が飛んだ。
「鬼子め!」
「母上!」
その場の誰よりも早く声をあげて、政宗と義姫の間に割って入ったものがある。
かつての竺丸、いまでは小次郎と呼ばれる政宗の弟であった。やっと十を過ぎたばかりの彼の体は未だ母より小さく、兄を背に庇うこともできずに母に取りすがることしかできなかった。
「母上、おしずまりください!」
政宗よりずっと小さな体で、二発目を打とうと手を挙げた母を必死に小次郎は押さえつけていた。
だが、義姫はそんな小次郎を無視して政宗へ言葉をぶつけた。
「鬼子め、鬼子め――お前のせいじゃ、輝宗さまをかえせ! お前が撫で斬りなぞせんかったら、畠山は来なかった! お前のせいじゃ! お前のせいじゃ!」
「母上!」
義姫は上の息子にあらん限りの罵声を礫のように浴びせると、下の息子の手を逃れて夫のもとへ戻った。母の泣く声は荒々しい濁流のようだった。政宗はしばしそれを見つめてから、その場を立ち去った。小次郎一瞬迷い、母を置いて兄の後を追った。
「兄上! 母上は、ほんとうは……」
追いすがる弟を振り返ると、政宗は彼を睨みつけた。明りとりの窓もない廊下は暗い。茫洋とした空気が、母の泣く部屋から伝わってくる。小次郎は兄の視線に一瞬だけ身を震わせたが、なんとか踏みとどまった。
「お前は仏の説話が好きだったな」
「え……」
兄に突如振られた話題に、小次郎は戸惑いをみせた。だがその戸惑いに政宗は笑った。それは己への嗤笑だった。
「親殺しは何処へ落ちるんだ」
「兄上……」
小次郎はゆるゆると首を振った。嗤いを含んだ兄の口調に、反射的に首を振ったのだ。
「地獄だ。どこに落ちる? 南蛮には煉獄ってのもあるらしいぜ。ああ――でも確か、悔い改めて許される可能性がある者が落とされるところらしいから、俺には関係ねぇか」
「父上は畠山義継に斬られたと聞きました。兄上ではありません!」
「どうだかな、母上が言ってたろ、その通りだ。――右目も失くしちまったし、とんだ親不孝ものだ」
政宗は嗤った。何もかもに嗤っていた。だが小次郎は嗤わない。嗤う代わりに、妙なことを口走った。
「小次郎は、兄上の右の目の玉は、竜の玉だったから、捧げたと父上にお聞きしました!」
小次郎は兄に近づいた。政宗はわずか、ひるむ。小次郎は怖じず、兄を見上げて訴える。
「父上はいつもおっしゃってました。兄上は竜になると。それで右の目に玉を抱えて生まれていらっしゃったけど、ちいさい兄上には重かったから、先に竜神様に捧げてしまったって」
「――」
それはやわらかくあたたかく、同時に鈍い衝撃をもった言葉だった。
だが、政宗には見えるようだった。今立っている暗い廊下から意識が離れ、まるで見てきたかのようにその光景が脳裡に浮かぶ。
穏やかな、花咲く庭。そよ風は池にあるかなしかの波をつくり、そのわずかな波は泳ぐ魚を驚かせたかもしれない。その景色を望む縁側で、父が小次郎を膝に乗せている。父はその庭の景色をあの優しい眼で眺めながら、お前の兄は竜になる、と下の息子に説いて聞かせたのだ。
弟は不思議さと、憧れでもって父を見上げる。父はにこにこと笑って、下の息子の頭を撫でるのだ。
――お前の兄は竜の化身だ、といいながら。
暖かな日だっただろう。陽光は優しく、父子を包み照らすのだ。
だがそこには、政宗と兄弟の母はいない。いてはならない。
「だから兄上も――母上も、ほんとうは気にしなくていいんだって、父上仰ってました」
その光景が不意に去る。震えた声のせいだった。見れば小次郎がぐいと袖で顔を拭っていた。泣いているのだ。そんな弟に政宗は思う。
――優しいが、弱い、と。
政宗は、ふと、見知らぬかつての幻から戻った自分が宙に浮いて、自らと弟を見下ろしている気分になった。父と弟の優しく穏やかな景色から、今ここへ自分が引きずり出されたようにも感じる。そしてこれは、この状況は、あまりに滑稽で腹立たしい。その景色が、その引きずり出されたような感覚が、ではない。宙に浮いて、見下ろす自分がだ。
素直に泣ける小次郎が羨ましい、二人いるような感覚の自分が憎らしい。子として弟と同じく泣きたい自分と、当主として立っていなければならない自分。見下ろしているのは後者だ。それを憎むのは前者だ。
そんな濁った感情へ、またやわらかな清流のように小次郎の声が流れ込む。
「は――母上は、ずっと、兄上を病気にしてしまった、と、仰って、いました。僕にかかりきりだったのは、僕も病気に――」
政宗を襲った病。それは彼から右目を永遠に奪った病魔のことだ。光を奪い、目の玉を重い枷とした病。その原因を母の胎に求める医者もいる、と政宗は聞いたことがあった。小次郎が言うのはそれだろうか。
そして、政宗はふと気付く。
弟はもう、父の話や書物の御伽噺を信じるだけの子どもではなくなったのだ、と。道理と筋立てを知り、難しい典医の言葉を理解する力をもってしまったのだと。政宗は竜の玉であった右目を竜神に捧げたのではなく、病で右目の光を失ったのだと、もうこの弟は承知しているのだ、と。
「母上は、さっきのは、とつぜんの、ことで……だから、ちがうんです――」
「もう、いい」
政宗は振り払うように言うと、小次郎に背を向けた。
「お前は――父上と……母上のところに戻れ。俺は――俺は……」
言いきらぬうちに、政宗の無意識に従った足が動き、彼を人のいない自室の方へと運んだ。
小次郎が追いすがるようなこえを出したが――なんの音だったか、政宗には聞こえなかった。
小次郎の声以外、ここに音はなかったというのに。

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