蛟眠る 第一話
 其の四

そしてまたある日のこと。
「なあ小十郎」
「はい」
呼びかけたられた小十郎は短く答えた。すると梵天丸は少し難しい顔をして言った。
「基信は、他の国のことに詳しいって聞いたけど、本当か」
恩のある人物の名を出されて、小十郎は少し驚いた。
「遠藤殿は殿の側近中の側近。中でも諸国との折衝を担当しておられます。家中では最も詳しい方の一人になると思いますが……」
「じゃあ、忙しいのか」
「多忙かとは思われますが」
すると、梵天丸はまた難しい顔をする。
「……何か気にかかることが?」
小十郎がきけば、梵天丸は明朗に答えた。
「オレは外のことが知りたい。父上に聞いたら、基信が適任だって言われた」
「左様ですか」
梵天丸の興味はあれ以来、城の庭へ、庭から城下へ――そして国境の先まで伸びているようであった。これは良い兆候である、と小十郎は思った。
「では、遠藤殿にお暇な日をお聞きして参りましょう」
小十郎が言うと、梵天丸は目を輝かせて「頼んだぞ」と言った。
基信の方も、若君が国境の先へ興味を持っていると知ってまんざらでもなさそうであった。
「お教えできることは、お教えいたしましょう――小十郎、お前も一緒に聞くといい。後々役に立つことだろう」
そうして、梵天丸の様々な勉強に新たに諸国のことを知るための講義が加わった。基信の言うことは、書にあるようなどこか物語めいたものではなく、生々しい乱世のあり様であった。仙道にある中小の大名から、伊達の南方にある相馬・蘆名・佐竹などの大大名まで彼は知り得ることを若き嫡男に語って聞かせた。なかでも梵天丸が最も興味を示したのは、白河の関の向こうのさらに向こう――中央の勢力であった。
「京、上洛――天下」
ふとある日の講義で、梵天丸がそうつぶやいた。基信はすっと国主の嫡男に目を向けた後、小十郎を見てひとつ頷いてみせた。その顔は頼もしげであり、満足そうでもあった。
その帰りであった。自室へと戻る途中、先を行く梵天丸が言った。
「小十郎――世はオレの知らないことばかりだ」
「……」
「お前が目をえぐってくれなければ、オレは右目ばかり気にして、左が見えることを忘れていたと思う」
そこで梵天丸は立ち止り、くるりと小十郎を振り返った。
「主君として礼を言う」
輝宗の声色を感じさせる言葉で梵天丸は短く言うと、さっと踵を返して行ってしまった。小十郎はその背に深々と頭を下げた。


が、少し小十郎にとって予想外だったのが、梵天丸の外への興味が行き過ぎて、外の外、南蛮へも興味を持ってしまったことである。ほとんどが丸と棒で構成される異形の文字が詰め込んである南蛮語の字引きを梵天丸が熱心に眺めているのを見たとき、小十郎は若干頭が痛くなったのだった。

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