蛟眠る 第一話
 其の参

熱が下がり、病巣を抜かれた疼きもなくなると梵天丸はみるみるうちに回復し、病得る前の利発な本性を取り戻していった。
もともと書を読むのは嫌いではなかった梵天丸は虎哉和尚のもとでは学問にますますはげみ、漢詩や和歌に親しみ、軍記物や兵法書を自ら手に取るようになった。
しかしそれは城の中――文字通り屋根の下での変化のことで、病との数年にわたる籠りがちな生活で身に着いた怯えのためか、外への興味はなかなか戻らなかった。
そんなある日のこと。対面して音読に励んでる梵天丸の声の向こうに小十郎は軽快な足音を聞いた気がして顔をあげた。少しして挨拶もなくスラッと障子が開いて、ターンと柱にぶつかる音がした。見ればそこには、梵天丸のひとつしたの従弟、時宗丸が立っていた。
「梵!」
実は時宗丸は梵天丸が病み沈んでいる間もめげず怖じず、彼の周りに付きまとい、しつこく遊びに誘った唯一の子でもあった。
呼ばれて顔をあげた梵天丸は、不機嫌そうに眉を寄せる。
「なんだよ」
「元気になったんだろ、外へ出ようよ!」
「オレは今本を読んでるんだ」
梵天丸はその場で足踏みした従弟へむっとした視線を投げて書見台に向き直った。すると時宗丸はひょいとそこへ近づく。
「何読んでんの?」
ぐいと体を押されて割り込まれた梵天丸がまたムッとした。それでも答えてやるのが年上の義務だと考えたのか、梵天丸はぶっきらぼうに書名を告げた。
「『太平記』」
「軍記ものじゃん! おれも読む!」
言って時宗丸は座り込んでしまった。梵天丸が声を荒げる。
「隣に座るなよ! お前も書見台用意しろよ!」
「だっておれには本がないよ! いいじゃん見せてよ!」
そうお互いに主張する従兄弟は、体を押し合いへしあいしはじめた。
「……もう一冊借りて参りますから」
見かねた小十郎がこめかみを撫でた後そう言って書見台ごと本を時宗丸へ差し出せば、時宗丸はやった! と歓声を上げ、梵天丸の方は安堵のため息をついた。
小十郎はしばし失礼します、と言って部屋を出た。書庫から同じ本を一冊借りて戻れば、部屋の手前で甲高い子どもの声が聞こえてきた。
「本もいいけどさ、梵はこういうのにでてくるような武者になりたいと思わないの? ガンガン敵倒して首とって、スゲーことすんの!」
「スゲーことって……」
「そうだ、試しにおれと相撲しようよ! おれ、だいぶ強くなったんだぜ!」
戸惑う梵天丸を置き去りにする時宗丸の声。思わず小十郎が立ち止り思案していると、ぴょんと庭へ時宗丸が飛び出してきた。
「梵! 早く早く!」
靴脱ぎ石も飛び越え素足で庭へ下りた従弟に、部屋から顔だけを出した梵天丸は戸惑っているようだった。
「オレは別にいい」
「そう? そんならおれの“ふせんしょー”だ!」
エッヘン、とばかりに時宗丸が胸を張るのを見て、梵天丸が部屋から飛び出してきた。
「不戦勝? そんなのないぜ! お前、ちっさいころオレに負けてたの忘れたのか? ふっとばしてやる!」
叫ぶと同時に庭へ下りた梵天丸が時宗丸へと飛びかかった。止めようかと足を踏み出しかけた小十郎は、ふと事の成り行きを見守ることにした。
取っ組みあった少年二人が、右へ左へとじりじり動く。お互いに隙を探しているのだ。
砂がザリザリと音を立て、「このっ」とか「えいっ」という声も聞こえた。
しばらくして、勝負がついた。
吹き飛ばされたのは梵天丸であった。
「やった!」
飛び上がって喜ぶ時宗丸を梵天丸は茫然と見上げている。
無理もない、と小十郎は思った。
時宗丸は稽古や外遊びを得意としたが、梵天丸は数年そのようなことは遠ざけていたのだ。
わずか一歳の歳の差は、されど一歳の歳の差になってしまった。
梵天丸は信じられないと言った顔で自分の両手を見、その後視線に気づいたか小十郎の方へ振り返った。
その顔には口惜しげな色が浮かんでいる。ザッと立ち上がった幼い主は、声を張り上げた。
「小十郎! オレと稽古しろ!」
すると、その向こうにいた時宗丸が顔を輝かせた。友が戻ってきた、そんな表情である。
「御意に」
小十郎は軽く礼をしながら、そっと笑った。
それを機に、政宗は稽古と遊びの輪へ戻った。元々の負けず嫌いのおかげか、体が慣れるとメキメキと頭角を現し、最終的に時宗丸を投げ飛ばし
「この前の借りは返したぜ」
と言うまでになった。それを機に餓鬼大将はそれまで時宗丸が占めていたものが、梵天丸となった。時宗丸はしばらく不服そうであったが、それも慣れるまでの事であった。それに将来の主従を思えば自然な形に落ち着いたともいえる。

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