蛟眠る 第一話
 其の弐

しばらく進んだところで基信とは別れた。普段寝起きするために与えられた部屋に入れば、出したままにしていた文机や書が片付けられていた。やったことがやったことだ。恐らくは家探しをされたのだろう。
衣を変える前に髭を落とす。それから髪を櫛削る。新しい衣に袖を通せば、地面にねじ伏せられたためか薄汚い牢に放り込まれていたせいか、前の着物がひどく不快なものになっていたことに気付く。それから伴われて――というより見張られて通された部屋には途中で別れた基信がすでにそこへ姿勢を正していた。
板張りの国主の部屋はどこよりも清潔で、膝をついて目を落としても埃も塵もひとつもない。空気も清涼で、わずか香の香りもする気がした。一段高い主の座す場所へ目をやれば、さほど距離はないはずなのに異様に離れている気もした。
御成りの声がして、小十郎はそこへ額づいた。基信が少し遅れて、小十郎よりもやや浅く平伏するのが感じられた。
上座に人の座る気配がする。
「小十郎」
よく通る低い声は落ち着いていた。
「はい」
「梵天丸は無事だ。面をあげよ」
小十郎が恐る恐る顔をあげれば、そこにはどっかりと腰を下ろした輝宗がいた。
「――」
「――目はそらさぬか」
輝宗は顎を引き、少し面白そうな顔をした。小十郎はからからに乾いた口で言う。
「梵天丸様は」
「熱が出て呻いておる」
輝宗は他人の子どもの事情のようにあっさりと答えた。小十郎が不審に思うと、そのわずかな表情の違いを読みとったか、国主は笑った。
「峠は越えたそうだ」
ほっと息をついた小十郎と、深くため息をついた基信を見て、輝宗は明るいが真剣な口調で言った。
「梵天丸は死なん。あれは天下人の器だ」
息子を自慢する父の口調そのもの、といった言葉に小十郎は気を引かれた。輝宗はふと真面目な顔になった。
「小十郎は悪くない、とうわ言のように言っておったわ」
「――」
「いや、実際うわ言か。家中の者どもはお前を切れ、という。あるいは切腹させよ、とな」
予想された結果だ。だからこそ小十郎は輝宗から目をそらしはしなかった。どんな沙汰だろうと受け入れる覚悟はできている。基信がまたため息をつくのが聞こえた。
「だが、どうしたものかと儂は思う。梵天丸はお前を信頼しておるようだし、第一、あれは死んではおらん」
輝宗はふと身を乗り出し、小十郎の目を覗きこむようにした。
「それに梵天丸は、自分で切れない枷をお前に断ち切らせた、と、見ることもできる」
慈父のようでいて、何かを探る強い目に晒されて小十郎は息をのんだ。それから輝宗はゆっくりと視線をそらした。
「基信」
「は」
「小十郎を切れば、推挙したお前の責も問わなければならんかのぅ」
輝宗のその一言で、小十郎は飛び上がるように反応した。基信のほうは平然としている。
「そうでしょう。他の者が黙っているとは思えません故」
短く答えた基信に小十郎は慌ててそちらへ顔を向けた。輝宗はふむ、と顎を撫でた。
「それは面倒だな」
こともなげに軽くそういった輝宗は、指折り数えはじめた。
「梵天丸の膿の溜まった目玉がなくなった、かつあやつは熱を出したが無事である。基信の責を問うのは、儂には面倒だ――それに伊達の不利にもなり得る」
輝宗はそれから年の離れた家臣二人を交互に見て、言った。
「今のところ小十郎に切腹を命じても、儂にも家にも特に利がなさそうだ」
基信がまたため息をついたのが聞こえた――しかし、安堵したようなものではない。基信はそのようなことでおのれの身を嘆く人物でもなかった。それで小十郎は気づいた。基信のこれまでのため息は、小十郎への呆れの気持ちを前面に押し出たものであったのだ、と。
「しばし謹慎せい。梵天丸が動けるようになればまた登城を許す」
輝宗は短くそう言うと、さっと立ち上がっていってしまった。床に指をついて平伏する小十郎に基信がまたため息をついた。それは今度は安堵が入り混じったものであった。

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