蛟眠る 第一話
 其の壱

――暗い。だがそんなことは問題ではない。
小十郎はゆっくりと閉じていた目を開いた。目の前には太い格子。そして小さな入口には外側から錠がかかっている。
ここは牢だ。
座敷牢などという上等なものではない。半地下の牢の床はただ踏み固められただけの土で、触れれば砂も埃もそこここへ着く。身を横たえようが座っていようが、柔らかさのない土は身を苛むだけである。土の床は石積みの壁と共に夏だろうが冬だろうが不快な温度を伝えるだけだ。幸いなことに今は春から初夏へと移るころで、暑さに苦しむことも凍えることもない。しかし昨晩は床との緩衝や体温をとどめるために役立つ茣蓙すら与えられなかった。あたりは暗闇だ。だが既に目は慣れて、牢の隅に溜まる不快な汚れすら見分けることができるようになっていた。
ここに入れられて二日になる。足は痛み、正しい姿勢を保とうという意思を持つことを小十郎はすでに放棄していた。だがだらしなく足を投げ出したりすることもできず、背を伸ばし、無様にならない程度に腰を上げ時折正座した足の上下を組み替える。
髪は触らずとも汚れているのがわかる。ふと顎へ手を伸ばせば伸びる髭は子どもを脱し始めたころより固さを増し、触れれば気になる。だが小十郎はそこで手を止めず、さらに上へとざらつく肌の上、己の手を動かしていく。
触れたのは、右目。
「……」
――小十郎、やれ。
二日前、元服どころか両の指を折るにも少し足りない歳の小十郎の主は小刀を彼の前に付きつけて言った。
国主伊達輝宗の息子で小十郎の主の梵天丸は、さらに幼いころに罹った病で右目の視力を失っていた。それだけならまだしも、病んだ右目は醜くつぶれ膿んでしまい、彼から母を遠ざけるほどの醜悪さになっていた。
それはもはや、そこにあるのは仕方がないとはいえ幼い彼の重荷となっていた。
傅役に選ばれた小十郎にすぐに梵天丸は懐かなかった。それでも姉である喜多と共に辛抱強く、ときにしつこく接すれば少年はほだされたように姉弟に、徐々にだが心を開くようになった。
そしてその梵天丸が――主が、重くなった己が右目をえぐれと言っている。
――試されている。
と小十郎は思った。小十郎はしばしじっと小刀を見つめた。
迷いがなかったと言えば嘘になる。だが、決断より先に手が伸びた。
「――御意」
そこから先、覚えているのはやわらかい肉の感覚、ぬめる血膿の感触、子どもの断末魔のような悲鳴。それから、怒号。
――若が、若が!
――片倉を取り押さえろ!
――気がふれたぞ! 傅役の気がふれた!!
気付けば地面にねじ伏せられた小十郎は縛りあげられ、牢に放り込まれていた。戒めがとかれたのは夜のことだ。
――そのまま首を刎ねられるかと思ったのに。
けれど、その気配はない。牢の番も特になにを言うでもない。
――梵天丸様は無事だろうか。
耳に残るのはその悲鳴だ。やれと言われたからやった、とそれくらいなら申し開きはできるだろう。だが、やると決めたのは小十郎である。
――もしものことがあれば、腹を召さねば。
だが気付けば、腰に差した刀も脇差も見当たらない。しかし自裁の方法はいくらでもある。
そこまで考えたところで、重い足音が響いて来た。見上げれば、格子の向こうに人がやってきていた。
「――遠藤殿」
ある筈のない姿を認めて、小十郎は目を見開いた。
「やれやれ」
そう呟いたのは、小十郎を取り立ててくれた輝宗の重臣遠藤基信であった。輝宗より10ばかり年上と言った感じの男は、目をかけた青年を見下ろしてため息をつく。
「誰か人をよこしてもよかったんだろうが……他のものだとお前に自裁の隙を与えそうだったんでな」
「――梵天丸様は」
「まずお前を殿の御前に連れていく。――髭をそって身支度を整えろ」
基信が静かにそう言うと、牢番が重い鍵を鍵穴に差し込み、小さな戸を開いた。


半地下の牢を出れば、日光が小十郎の目をつき刺した。前を行く基信についていけず、目を閉じ手で顔を庇う。基信が少し先で立ち止る気配がした。
不快ではないと思った牢の温度は、それでも小十郎を蝕んでいたか。肌がジワジワと光の持つ熱であぶられる。ふと手を動かせば、関節の稼働域が広がった気がした。やはり牢は寒く、身が縮んでいたのだ、と思う。
小十郎は大きく息を吸った。冷たくよどんだ空気が肺から出て行き、木々の香りがする空気が肺へ沁み、体へ満ちる。生き返った気がした。
手で作った影の下、目が明るさに慣れてきたのでそれを下せば、燦々と降る日光の下、木々の若い葉が黄金に輝いていた。青い空を雀が渡っていく。
二日の間に、世は鮮やかになっていた。
茫然とそれらを見つめていると、基信が言った。
「小十郎、歩け」
と。

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