密命
 其の弐

玄関から屋敷に入り直し、居間に入ると左衛門が茶色の猫と遊んでいた。スラリと空いた戸に甥と猫がこちらを見た。そして左衛門は信定を認識すると
「おいたん!」
と言って手を伸ばした。
「左衛門、元気だったか?」
信定はひょいと左衛門を抱きあげた。矢内の――蔦の実家の人間にとって左衛門は格別の存在だ。もはや誰も触れることはないが、左衛門は下手をしたら生まれてすぐに、いや生まれる前に賽の河原へと往っていたかもしれない存在なのだ。それも父の一言によって、あるいは母の命もろともなくなるところだったのだ。
あの時姉弟の母がわんわん泣いて、縁談を持ってきた父の重定が散々責められたのを信定はよく覚えている。母は泣きながら蔦を片倉から取り返す、信定の仕官もやめさせると言い続けた。父は何も言わなかった。
その後、蔦は体調を崩したものの左衛門は無事に生まれた。その初宮参りまでの間に一度、政宗に謹慎を命じられていた小十郎が一日だけ許されて矢内の屋敷にやってきたことがある。小十郎はすぐさま土間へと土下座をした。額を固められた土へ摺りつけるようにした義兄へ母が様々なものを投げたつけた。信定は複雑な思いでそれを茫然と眺めていたが、物が当たっても頭を下げたまま微動だにしない義兄に哀れを覚えて母を止めたのを覚えている。
そして翌日母と共に姉を訪ねてみれば、蔦は頑として矢内には戻らないと言った。
左衛門へ乳を含ませながら、嫁入りのときに私の茶碗はしっかり割ったではありませんか、あれから私は片倉の人間です、と言い切る姉が妙にきれいに見えて信定は姉に言い募る母に「姉上が帰らないって言ってるんだからやめろよ、みっともない」と言ってしまいひどい目にあったものだ。
正直、母の気持ちの方が信定にはよくわかった。
しかし信定は同時に小十郎の政宗への忠誠心も平素は信頼のおける人柄も知っていたし、何より姉が小十郎を深く慕っているのもしっていたので母の味方をすることもできなかった。
そして左衛門はすくすくと育ち――矢内の男二人はもう何も言わなくなった。母も父によって口を紡がされたが、未だ小十郎を怨んでいるのは間違いない。ただ信定は間近で小十郎が蔦と左衛門を不器用ながらに大切にしている様を見ていたので、どうしても怨みきることができなかった。
そして今に到るのである。
「げんき!」
左衛門が子ども独特の声で答えたので、信定は物思いから引き戻された。
「そっか、よかった。そうそう、左衛門にお土産があるんだ」
信定はひょいとそこへ座りこんで膝の上に甥を座らせると、持っていた風呂敷を片手で器用に解いた。するとそこには書きつけ用の紙や持ち運びのための筆や墨のほかに竹の節を利用したちいさな円い容器があった。信定がそれを取り上げて蓋をあけると左衛門が歓声を上げた。
「こんぺーと!」
「そうそう、金平糖」
信定はその小さな粒を一つ取り上げると掌の上に乗せた。左衛門はまだ不器用でふくふくした指で叔父の手にのった甘いお菓子を取り上げると口に含んだ。
「あまーい!」
「よかったー」
少し値が張ったが、左衛門が喜んだので信定は大いに満足だった。
「あいがと、おいたん」
にこにこという甥に信定も笑う。
「ありがとうなんて言えるようになったんだ、左衛門はすごいなー」
甥の頭を撫でながらそう言うと、誰かが入ってくる気配がした。
「あら、左衛門。叔父さんから何かいただいたの?」
それはもちろん蔦であった。左衛門は信定の手から金平糖を容器ごと取り上げて母に自慢げに見せた。
「あまいの!」
「まあ金平糖」
傍らに屈んだ蔦に、左衛門はやはり不器用に容器の中から一粒、不器用なりに大切に金平糖を取り出すと母の口元に持っていった。
「あーんして」
口をあけるようにと要求する左衛門に蔦は笑って金平糖を食べた。
「美味しい」
と蔦が言えば左衛門は満足そうにして今度は信定へと金平糖を差し出した。叔父も金平糖を呑みこんだことを確認すると、左衛門はまたひと粒取り上げて今度はそれを自らの口に入れた。それからまたひと粒、と取り上げようとする左衛門に蔦は顔を近づけていった。
「はい、それでおしまいよ。ご飯が食べられなくなってしまいますからね」
「やだ!」
そんな息子に蔦はぐっと怖い顔を作って「いけません」と静かに言った。すると左衛門はしばしうろたえて、差し出された母の手に金平糖の器を名残惜しげに渡した。蔦は今度はにっこりと笑って
「左衛門はいい子ね」
とその頭を優しく撫でた。その声色がふと懐かしくて、信定は目を細めた。


左衛門と蔦には夕餉の、小十郎と信定には酒と肴の用意が整ったところで小十郎がやってきた。
小十郎は蔦に一度だけ酌をさせると、後は左衛門と自分の食事に集中するように促した。義兄にして主直々に銚子を差し出された信定が恐縮する。
美味い肴もいくつかあったが、何より目に楽しかったのは最近ようやっと箸の使い方が形になってきた左衛門だろう。おそるおそる慎重に、だが突き刺すことなく箸を使う幼子に、大人はみな思わず微笑んでいた。また汁物もほとんどこぼすことなく自分で平らげる甥の様子に、姉夫婦が慈しみ深い視線を送っていることに気付いた信定は安堵を新たにする思いであった。
やがて膳の前で「ごちそーさまでした!」と左衛門が言うと、蔦がにっこりと笑いながら「はい、お粗末さまでした」と言った。蔦が自分のものも含めて膳を下げている間に左衛門はぴょっこりと立ち上がって父の膝に上った。小十郎は当たり前のようにそこに座らせ、片腕で膝から落ちないようにそれを支えてやる。
「あのね、おいたんにこんぺーともらったの!」
見上げて言う左衛門に小十郎は苦笑した。
「叔父上、だろ? 金平糖か、よかったな――信定、気を使わせて悪かったな」
言いながら差し出された銚子をまた受けて信定は首を振った。
「いいえ」
すると、その様子を見ていた左衛門が声をあげた。
「さえもんもちちうえにおしゃくするー」
銚子に手を伸ばした息子に苦笑して、それを持たせた小十郎はぐっと盃を空にして息子に差し出した。左衛門はあぶなげな手つきでそこへ両手で銚子を傾けた。勢いよく酒の滝ができて
「おっと!」
と小十郎が思わず声をあげた。そして続けて
「おいおい、もういいぞ」
と言う頃には盃になみなみと酒が注がれていた。だが左衛門は一仕事終えた充実感があるのかキラキラした瞳で父を見上げている。小十郎は苦笑しつつ慎重に盃を口元に運んだ。盃が空になると左衛門は嬉しそうにした。
そこへ蔦が戻ってきた。すると左衛門はひょいと父の膝を降りて――信定の目に一瞬寂しそうな顔をした小十郎が映ったのは気のせいだろうか――母のもとへと行った。
蔦がそれを抱きとめると、息子は言った。
「こんぺーと!」
「まあ左衛門、夕餉の後だからだめですよ」
母にたしなめられたが、左衛門は首を振った。
「ちちうえにあげるの!」
すると蔦は息子の言葉に相好を崩した。それから左衛門の手の届かない所に置いてあった器を取り上げると、そっと屈んで息子に差し出した。左衛門は大事そうにそれを受け取ると、父のところまで走って戻り蓋をあけてまた不器用に金平糖を取り出した。小十郎が盃を置いて手を差し出しかけると、
「ん!」
と息子は手の位置より高い父の顔の辺りにそれを差し出した。小十郎がきょとんとすると、息子はトンと一度床を踵で叩いた。
「あーん!」
息子の示すことを理解した小十郎が優しく苦笑するのが信定には見えた。それから小十郎が素直に口を開けると、左衛門はそこにひょいとそれを放り込んだ。
「おいし?」
満足そうに笑って尋ねた息子の頭を父は黙って撫でた。それから左衛門はまた父の膝の上に戻った。それからどさくさにまぎれて自分の口にも金平糖を放り込んで
「左衛門、めっ」
と母に言われたが、その口調は左衛門にとっても信定にとってもとてもやわらかいものであった。


蔦が細々働いて――酒や肴を運んだりするので、じっとしている事が少ないので左衛門はいつの間にか父の膝の上に戻っていた。
はじめは酌をしたがったり父のつまみをつまんでいた息子が、そろそろウトウトし始めた。そしていつの間にか小十郎の腕に体を預けてすうすうと寝息を立て始めた。
蔦は一度厨に行ってまだ戻らない。
「……寝ちゃいましたか」
「ああ」
小十郎が左衛門の姿勢をそっとよいように変えるのを見ながら信定は盃を口元へ運んだ。そして息子に目を落としていた義兄がふと――口を開いた。
「なあ信定、頼みがある」
静かな声で、だがよく通る声で聞こえてきた言葉に神妙さを感じて信定は盃を善へ戻した。
「俺に何かあったら、蔦と左衛門を矢内に連れ帰ってくれ」
「――」
信定は何を言われているかわからず、まじまじと義兄を見やった。小十郎は息子に目を落としたままである。その手が左衛門の頭を撫でた。
「蔦は後追い考えるような馬鹿な女じゃねぇ。かと言って俺は仇打ちにでるほど価値のある男でもねぇ。片倉の家に留まっても、どうせ俺一代だけの家だ。守るものも固持するものもそうあるわけじゃない。お前には重定殿がいるから、浪人にはならねぇだろ。だから姉さんを連れて帰ってくれ。……蔦は――左衛門が無事なら生き続ける」
小十郎はそこでふと遠くを見た。信定はじっと義兄の顔を見つめた。
「あいつは――働き者だし、子も産める。まあちょいと他人さまにとっては外見は地味かもしれんが、それだって悪くねえ。すぐに嫁に欲しいという男が現れるだろうさ。――そうなったら左衛門にはちょいと大変かもしれんが、それもひとり立ちするまでの辛抱だ」
「……、酔っておられますな――」
続けて「義兄上に限って何かあるなど」と言いかけて信定は止め、息を吸い込んで口を閉じた。
いくら剣の腕が立とうと、大名の右腕であろうと、戦場に出れば命を懸けることには変わりはない。ましてや国主に幼いころから仕える小十郎だ。その政宗に何かあれば――とそこまで信定は考えて、思考を止めた。国主に何かあれば大町をあずかる父とてどうなることやらわからない。しかし有事には騎馬を率いて駆けつける立場にある重定ではあるが、武士と言うよりはどちらかといえば町人に近い――それを思えば、小十郎の言いたい事はよくわかった。武家の寡婦となるよりは町人の後妻にでもなったほうがながらえれる、と。
「――姉がおれの言うことを素直に聞いてくれるなら、いたしましょう」
信定はしばし言葉を探して、そう言った。すると小十郎がふっと笑った。
「上手くやってくれよ。お前の姉さんは、変に意固地なところがたまにあるからな」
「姉の意固地さなら、義兄上よりよく存じておりますゆえ」
信定がため息交じりに何気なく言った言葉に、小十郎がめずらしく声をあげて笑った。その声にぱっちりと目を覚ました左衛門が目を擦りながらキョロキョロと辺りを見回した。小十郎は笑いを納めながら、起しちまったな、悪い悪い、と息子の頭を撫でた。
しばらくして蔦が戻ってきた。蔦はまたうとうとし始めた左衛門ともってきた銚子を小十郎と取り替えた。信定は眠りかけの甥を見ながら言った。
「もう一杯いただいたら退散いたします」
すると、蔦が灯りを用意させますね、と言った。

蔦が帰り支度をはじめた信定のために灯りを用意しに一度消えた。左衛門は再び父の手に戻され、肩によりかかってまた寝息を立て始めている。
そんな息子を抱えたまま、小十郎は立ち上がった義弟につられるように立ち上がった。ここでかまいません、という義弟の言葉を無視して小十郎が息子に話しかける。
「ほら、叔父上がお帰りだぞ」
「うー」
玄関に出れば蔦が灯りを用意して待っていた。灯りを受け取って、姉夫婦と一言二言挨拶を交わす。すると甥が不意に声をあげた。
「おいたん、かえっちゃやだー」
「大丈夫、明日も来るよ」
苦笑しながら言えば、左衛門はむにゃむにゃと何か言った。笑う姉夫婦に頭を下げて、信定が玄関を出ると蔦が草履を引っ掛けてついてきた。
「――姉上、子どもじゃないんですから」
信定が困ったように言うと、蔦は笑った。
「そこまでよ、門のところまで。いいでしょう?」
振り返れば、小十郎は息子を寝かしつけようと思ったかすでにこちらに背を向けていた。
しばし無言。サクサクと土を踏む音ばかり響く。
「――姉上」
信定は灯りの先、闇を見つめながら言った。
蔦がこちらを見る気配がした。
「幸せですか」
その問いの意図は信定の己の内でも判然としないものであった。ただ口を衝いて出た、という表現が一番正しい。蔦がふと纏う空気を変えたのが肌で感じられたが信定は姉の顔は見なかった。
「ええ」
淀みなく返ってきた答えに信定は横顔のまま苦笑した。
「そうですか」


門を出るとき一度姉を振り返って、ではお暇いたします、と慇懃に言うと蔦は面白そうに笑って、なんのお構いもせず、と言った。
姉弟にしては珍妙なやりとりに笑いを交わし合った後、信定は道へ踏み出した。
しばらく歩いて信定はふと空を見上げた。
夜空は雲ひとつなく、月は細い。無数の星が恐ろしいほど冴え冴えと輝いているのが見えた。信定は立ち止りしばしそれを見上げた後、灯りが淡く優しい光を落とす道にまた目を落として家路を急いだ。

(了)

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2011年6月25日初出
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