密命
 其の壱

矢内藤兵衛信定は、南方への秘密の旅から戻るとまっすぐに主の屋敷へ向かった。
主は城仕えでこの奥州を統べる伊達政宗の右腕――いや右目と称される片倉小十郎で、信定は縁あってその人に奉公しているのである。
今回、信定は小十郎から命じられて主が国主から任されている領地を非公式で見回りに行ったのだ。
最初は正直、自分には荷が勝ちすぎると思った。
だが小十郎が名を挙げてからすぐに仕え信頼の厚い佐藤兄弟は城下を離れられぬし、一家筆頭の本沢家のものについては言うまでもない。
よって小十郎に仕える者としては新参者の信定は今回の任務は適任だったのである。幸い、小十郎の預かっている土地でも顔は知られていない。
しかし、領地に不穏な動きがあると聞くから見て来い、と言われても信定にはなんだか全てがあやしくも見え、普通にも見えた。
どうにも引っかかることは書き留めておいたが、自信がない。
だから見てきたままを報告しようと思っている。
小十郎に報告を行う約束の日は明日であるが、その前に信定は自分と小十郎に縁をつくった人物に会いに行こうと思って主の屋敷へ向かっているのである。
その人ならば、何か助言をくれるかもしれない、と思う。
――なにせ姉上は自分よりも聡い方だから。

信定の父は矢内和泉重定という大町の検断職にある者だ。重定は片倉小十郎景綱の妻蔦の父でもある。つまり信定と蔦は姉弟なのだ。
信定は蔦が小十郎の妻になることによって、小十郎に家中の者として迎え入れられたのである。
が、姉が嫁に行く時のことを思い出すと信定は穴を掘って埋まってしまいたい気持ちになる。
信定にとって蔦は叱られて蔵に閉じ込められた時に助け出してくれたり、悪戯をしておやつを抜かれたときにこっそりと自分の菓子を半分分けてくれる優しい姉であった。またよく家の手伝いをする働き者の姉は自慢でもあった。
その姉がいつの間にか裳着の儀を終えて、それとともにいくつかの縁談が持ち込まれはじめた時に信定は――まだ元服前の子どもだったのも相まって――不安になったのを覚えている。
蔦はいつも信定の手を引いてくれ、怖いものから守ってくれていた。そのころは母などが「信定はのんびりしていてだめねぇ。蔦を見習いなさいよ」などというので反発を覚えていたりしたが、いざ縁談がもちこまれたと聞くと心の奥底がモヤモヤとして落ち着かなくなった。
そして何故だか縁談がいくつか失敗すると信定はほっとしたものである。
だが――ある日ついに姉の嫁ぎ先は決まってしまった。
父など大喜びで「殿の覚えめでたき若君の近侍だ、これ以上婿殿に望むことなどあるか」などと言っていたが信定は納得がいかなかった。
父が喜んで酒を飲んでひっくり返ったその翌日、信定は木刀を蔦の前に持ち出して
「その片倉という人の腕前を試してきます」
とかなり本気で言った。が、蔦は一瞬キョトンとしたあと爆笑した。そして笑い転げながら息絶え絶えに
「あんたには無理よぅ」
と言ったのである。あんまり蔦が笑うので信定は意地になって家を飛び出したが、城の門番――当時小十郎は寝起きも城でしていたのである――に文字通り門前払いを喰らった。
憤慨して道を引き返して行くと、こちらへ向かってくる蔦と出くわしてしまった。そのとき蔦は蔵に閉じ込められた信定を見つけ出した時とおんなじ顔をした。ほっとしたような優しい笑みだ。信定が思わずふいっと顔をそらすと蔦はまっすぐ弟に駆け寄ってきた。そのままの勢いで抱きしめられた事をよく覚えている。
人が見てるのになにすんだ、と喚き立てる信定を尻目に蔦が静かな声で
「信定はいい子ね」
と言ったことも、信定はよく覚えている。それが姉に抱きしめられた最後でもあったからかもしれない。
そのさらに数日後、信定は顔合わせの場で小十郎と初対面した。
その頃はたしか小十郎に頬に傷はなかったと思うが一目見て
――姉上は正しかった。
と思ったのを覚えている。背も高いし体格もいい。聞けば居合いはすでに達人の域だという。
別に初めから勝つ気などなかったのだが、無理だと思った。男として本能的に悟った。無理だ。死ぬ。
しばらく信定がびりびりと緊張して座っていると、たまたま姉も両親も席を立ったことがあった。
血のつながらぬ、縁がつい先頃できたばかりの男二人が部屋に取り残された。
信定は小十郎のやや強面な顔をときおりチラチラと見ながらさてどうしたもんか、と思っていたのを覚えている。
気まずい空気の中、小十郎が発してくれた言葉も信定はよく覚えている。
「俺にも姉がいるんだ」
不器用な感じのする困り顔のような笑い顔で言われて、信定はなんだか笑ってしまったのを覚えている。


恥ずかしいこと満載の思い出をさらっているうちに、信定は片倉の屋敷に辿り着いていた。入口で姉上いや奥方様はおいでか、と問えば女中が奥さまは今手が離せませんので客間でお待ちくださいと言った。その言葉に信定は一瞬どうするかと首をひねった。すると信定が蔦の実弟だと知っている女中は苦笑して
「信定さまなら構いませんでしょう。庭においでです」
と言った。信定は女中に頭を下げて庭へ回った。
庭へ出れば、蔦は茣蓙を広げた上に大量の野菜を並べて何やら難しい顔をしていた。
「姉上」
呼びかけたところでやっと蔦は信定に顔を向けた。
「信定、小十郎さまに呼ばれたのは明日じゃなかった?」
蔦は昔と同じ口調で――いや左衛門が生まれてからより小うるさくなったような口調でそう言った。信定は頭を掻きながら
「お帰りって言ってほしかったなぁ」
と言った。すると蔦は苦笑して
「お前の家は矢内でしょう。ここは片倉ですよ。とはいえ、おかえりなさい」
と言ってくれた。
信定も笑ってただいま戻りました、と言った後ふと茣蓙の上を眺めた。
葱の海である。
「――義兄上のつくられる野菜はやっぱり立派だなぁ。……曲がり葱まで」
信定がしゃがみ込んで綺麗な弧を描く葱を取り上げると蔦は苦笑した。
「今年はじめて作ったの」
曲がり葱とはこの地方独特の育成方法をとる葱である。葱はまっすぐお天道様に向かって伸びる性質がある。その葱を一度引っこ抜き、横に寝かせて土を布団のようにかぶせてやると、その性質のせいで見事に曲がるのである。このようにした葱は柔らかさと甘みが強くなると言われ普通の葱より好む者も多いという。
「政宗さまに献上なさる分を選り分けているんだけれど……その曲がり葱が問題なのよ」
「問題?」
信定が首をかしげると蔦がふうと息をついた。
「その葱が曲がっているのはそう育てたからだけれど、不出来なものとして城の方に退けられたりしないかしら」
うーん、と信定は腕を組んだ。確か殿こと政宗様は料理を作るのがお好きであるから食材には詳しいはず、と思ったところでその食材が城の者たちによって吟味されることにもすぐに思い至った。政宗が曲がり葱を知っていても、城の者が勝手に「殿の御前にふさわしくない」とすればそれは政宗のもとに届かぬのである。たとえ竜の右目手ずからのものであろうと、だ。
「義兄上は一筆添えられるんですよね。……そこに曲がり葱について一言書いていただけばいいんではありませんか」
「――それもそうね」
信定が言うと蔦は苦笑した。そんな姉へ、信定はそうだ――と続ける。
「義兄上に言われたとおりに見回って来たのですが、おれにはどうも――よくわからなくて」
蔦がすっと目から笑みを消した。信定はその視線に少し緊張した。
「現地を見たお前にわからないのであれば、私にはもっとわかりませんよ?」
「――はい」
「お前、書きとめたりはしたんでしょう? 小十郎さまは聡い方ですしお前より経験もあります。それをお伝えなさい。判断するのは小十郎さまです。お前は目と耳であればいいんですよ」
「――はい」
どこか手厳しさを含む物言いに、思わず信定は俯いてしまった。蔦が苦笑するのが聞こえた。
「信定――私は女ですから、お前や小十郎さまのなさることにあまり口を挟みたくないのです。わかりますね」
「はい」
信定はため息交じりに返事をした。そのとき、ふと屋敷の縁側から声がした。
「信定、戻ったのか」
見れば、小十郎が縁側に立っている。今帰ったといった様子で、茣蓙の前に屈んでいた蔦が慌てて立ち上がった。
「もうしわけありません、お迎えに出れず――」
蔦が勢いのまま言うと、小十郎は首を振った。
「いや、いい。信定が来ていると聞いていたしな」
それから小十郎は葱の広がる茣蓙の上に目をやった。
「明日には差し上げたいんだが」
「はい、わかりました」
蔦はしっかりした声で答えた。小十郎がわずかにそれに笑ったのが信定には見て取れた。家族や親類、直属の家臣や城の部下たちも含めて小十郎が最も信頼しているのは姉だろう――仕事人や戦人としてではなく、人間として蔦は小十郎に信頼されているのだ、と信定は思う。
「報告は明日聞くとして――信定、上がっていくだろう? 俺はちょいと書き物をしなきゃならねぇから少しばかり待ってもらうことになるが、一杯飲んでけ」
「はい」
小十郎は信定の返事に満足そうに笑うと部屋に引っ込んでいってしまった。その間に蔦は茣蓙を丸めて葱を包むとそれを縁の下に仕舞っていた。
それから急いで沓脱ぎ石から縁側に上りつつ信定に言う。
「居間に左衛門がいるから、相手をしてあげて頂戴。私は小十郎さまのお着替えを手伝って厨に行きますから」
「はいはい」
蔦はパタパタと駆けていく。信定はさて玄関に戻るか、と思ったところで葱を包んだ茣蓙が縁の下から少しはみ出しているのに気付いて丁寧に奥へ押し込んだ。収穫した葱に日光はあまりあてないほうがいい――筈だった気がする。

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