竜穴に還りて
 其の弐

しばらくそうしているとわんわんと言う泣き声の向こうに
「蔦」
という声を聞いた気がした。ここのところ聞いていない低い夫の声に良く似た声。まさか、と思って身を固くする。
母とは逆を向いていた左衛門がピタと泣きやんだ。
「蔦、左衛門」
肩の上で左衛門が歓声を上げた。その言葉は「ちちうえ!」との音を成したようにも思えるが、余りにも耳に近い叫び声に蔦の耳は麻痺した。
少し驚きを含んだような男の声にそろそろと向き直る。見れば、戦装束のままの夫が馬をひいている。
「……、小十郎さま」
腕の中で左衛門がばたついた。その間に小十郎は馬を引きつつ歩み寄ってくる。
「こんなところまで……迎えに来てくれたのか」
「はい!」
答えたのは腕の中で身をひねった息子だ。蔦は息子を抱え直して父と向かい合えるようにしてやった。
小十郎は息子の返答に笑って、ひょいと蔦から左衛門をとりあげた。それから息子の顔に涙のあとを見とめて僅かばかり眉間にしわを寄せた。
「ん、なんだ泣きべそかいてやがったのか。どれ、よーしよし」
父があやすように体を揺すったので、左衛門はあわてて手の甲で顔をぬぐって一丁前に父に反論して見せる。
「さえもんはぶしのこです!」
「お、泣いた烏が笑いやがるか」
たしかに左衛門は顔を輝かせている。その表情に小十郎は眉間の皴を解いた。
一方蔦はどこか茫然とその様子を見つめていた。そんな妻へすっと小十郎が息子から視線を移す。蔦は少しびくりと肩を動かした。口の中がカラカラに乾いているように感じたが、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「……、お帰り、なさいませ」
「……ああ、もどった」
小十郎が一歩蔦へと近づく。蔦はそろそろと腕を伸ばした。そして、小十郎の左衛門を抱いていないほうへ身を寄せた。互いの背中へ腕が回る気配がした。
それから、ぽかり、と蔦は小十郎の胸を殴りつけた。二度、三度。
「おい……胴つけたままなんだ。怪我するぞ」
小十郎の小手をつけた手がそれを止める。それから小十郎ははっとしたような顔になった。大きな手で蔦の細い手を優しく握り締める。
「……痩せたな」
そう言う夫に蔦は首を振る。
「心配かけた」
「ご無事でようございました……」
蔦にはそれだけ言うのがやっとだった。
それから急にぐっ、と抱き寄せられて蔦は息が詰まった。夫は捕らえられていたはずなのに、力強さはちっとも変わらない。蔦は少し苦笑した。
「本当に、思ったより、御無事で」
「頑丈だけが取り柄でな」
ため息混じりの言葉に思わず蔦が笑うと、小十郎は体をはなして妻の目元をぬぐった。いつの間にか眦に溜まっていたものが零れていたらしい。
「……抜け出してきたから、すぐ戻る」
「はい」
答えて蔦が左衛門を受けとろとすると、小十郎はひょいと左衛門を肩に乗せた。息子は父の頭にしがみついて、上手に肩にまたがった。そして嬉しそうに声を上げる。
「かたぐるまー!」
「左衛門!」
蔦が慌てると、小十郎は鷹揚に笑った。
「――と、言いてえところだが、今戻ると政宗様にぶちのめされた上に姉上に殺されかねん」
「え?」
蔦がきょとんとすると、小十郎は片手で妻の頬を撫でた。
「今日は屋敷で飯を食って、お前の隣で寝る」
「――」
「嫌か」
蔦はまたふるふると首を振った。先ほどとは違う意味で。それからその意味は言葉になった。
「嫌なものですか」
小十郎はニッと笑うと、蔦の唇を親指でなぞった。
「紅さしてやがるな。色気づけやがって」
「これは左衛門が」
「俺のためじゃねぇのか」
どこか意地悪く言う小十郎に蔦はおろおろと視線を泳がせた。そこへ、頭上から幼子の声が降って来る。
「さえもんも、ちちうえとははうえと、いっしょにねます!!」
その言葉に、小十郎が豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。それに蔦はぷっと吹き出して言う。
「ええ、川の字ですよ、左衛門」
「蔦」
小十郎が珍しく恨みがましい声を出して名を呼んだが、蔦は聞こえないふりをする。
「皆、心配していたんですよ。さあ戻りましょう」
言うと小十郎も観念したようだった。
「そうだな。……蔦」
「はい」
「……ただいま」
「おかえりなさいませ」

奥州は未だ乱れている。これは伊達政宗が、その右目と称される片倉小十郎を従えて再び奥州を掌握するまでの、とるに足りない出来事であった。

(了)

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2010年9月26日初出 2011年4月17日改訂 2011年4月24日再改訂
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