魚竜爵馬の後始末
其の弐


しばらく後――
「小十郎さま、いらっしゃいますね?」
戸の向こうから柔らかな声が聞こえてきて、小十郎はため息をついた。
「入れ」
言うと、戸が静かに開いて蔦が入ってきた。口元に笑みを浮かべる妻を見て、小十郎はとっていた筆を置いた。
「政宗さまが、小十郎は“じぇんとる”じゃないな、とおっしゃってましたよ」
「意味がわからねぇ。俺は武士だ」
むっとしたまま言っても蔦の笑みは引っ込まない。小十郎はため息をついた。
「さっきは悪かったな。――その様子だと、政宗様から聞いちまったか」
腕組みをしつつ言えば、蔦は袖で口元を隠した。
「獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすがごとく、甲斐の虎が若虎に難を授けたのに力を貸した、とお聞きしました」
「耳障りよく言えばそうだな」
はあ、と再びため息をつきつつ言えば蔦は袖の向こうでくすくすと笑ったようだった。
――先の織田との戦いの際、負傷した政宗と伊達軍を受け入れてくれたのは甲斐武田であった。その際、まあ、色々な事があったものだが、その騒動の最中に武田の庭の灯篭を砕いた小十郎は信玄が設けた「武田式修行道場」とやらに力を貸さざるを得ないことになってしまったのだ。
天狗の面を被って。
先ほど政宗から蔦に下げ渡された天狗の面は、その複製――というよりさらなる装飾を施した細工のいい工芸品であった。
「でも、小十郎さまは、意外とノリが良かった、とお聞きしましたよ」
楽しそうに笑う妻に言われて、小十郎は呻いた。それからふと蔦が心配そうな顔をした。
「そういえば、お熱のほうが気になりますからもう一度計らせてくださいな」
「好きにしろ――熱なんかねぇけどな」
フイと顔をそらして言えば、少しひんやりした小さな手が額に伸びてきた。
「ほらな、熱なんか――」
ねえだろ、というのと同時に膝立ちになった蔦が小十郎の頭をそっと胸へと抱いた。
柔らかくあたたかな感覚に戸惑いつつ、
「――どうした?」
と問えば蔦の笑う様子が頭の触れる部分から伝わってきた。
「言ったら小十郎さま、また御機嫌ナナメになってしまわれます」
「誰が御機嫌ナナメだ」
そう言いつつも、その声色がその証拠だとばかりの声を出してしまった小十郎は舌打ちしてしまった。また蔦が笑う気配がした。そして髪を撫でられて、妻の思っていることを推測していると、結局黙っている事に堪えられなくなったか蔦が
「ふふ、かわいい」
と呟くのが聞こえて小十郎は、どうやら本当に熱が出てきたようだ、と口の中でブツブツ言った。


さて数日後。下男が子ども部屋の柱に打ちつけた釘を、左衛門は不安そうに小十郎は不服そうに見上げていた。そこへ蔦が例の天狗の面を掛けて満足そうにした。
「せっかくいただいたものですから」
という蔦の言葉に男二人は負けたことになる。
「ねーえ」
満足そうな母の袖を引いて、息子はチラチラと天狗の面を見ながら言った。
「ほんとに、てんぐさんここにいると、さえもん、けんつよくなる?」
真っ赤な顔に長い鼻。異形の容貌は幼い子供に不安を抱かせるものだ。
はじめに政宗様からお土産をいただきましたよ、と箱を開けた時、左衛門は本気で悲鳴を上げて母の胸にすがって「ちちうえやっつけて!」と言ったものだ。
蔦がそののち根気強く、この天狗は牛若丸に剣を教えてと政宗と刀の稽古をした小十郎と同じくらい強くてとても偉い天狗さまなのだ、と言い聞かせると左衛門は始め嫌がっていたのが時折桐の箱に触るようになり、最近では蓋をそっと開けて隙間から中を覗くまでに慣れていった。
頃合いを見て、蔦は蔵にしまっておくよりもいいでしょう、と左衛門の部屋に飾ることにしたのだ。子ども部屋には床の間がないから、柱に飾る形になった。
「拝領の品なんだ、子ども部屋じゃなくて客間に飾れ」
と小十郎が言うも、蔦は譲らなかった。そしてその妻は今、息子の視線に屈むと、ここのところ言い聞かせてきたことをまた繰り返した。
「ええ。強くなりますよ、なんて言ったって、この天狗さまは父上と同じくらいお強いのですから」
にこにこと言う妻の言葉に小十郎が項垂れていると、ふと視線を感じた。見れば、息子がじっとこちらを見ている。たぶん、母の言葉に半信半疑なので父からも確証を得たいらしい。小十郎はじんわりと苦く笑った。
「――ま、信じてればそうなるかもな」
父の言い方は曖昧だったが、左衛門は満足したらしい。こっくりと一つ頷くと、面と向き合いなにやら手を合わせ始めた。その様子があまりにも真剣だったので、父母は思わず笑ってしまった。


それからまた数日後。蔦と左衛門が愛姫に呼ばれて登城したので、帰りは親子三人になった。母に手をひかれた左衛門はどこか憂鬱そうである。帰るのが嫌なほど城が楽しかったか、と小十郎が思っていると左衛門が父を見上げた。
「あのね、まさむねさまがいってたの……」
「?」
「てんぐはひとをさらうから、さえもんはははうえをおまもりしなきゃならないの」
そういえば政宗は昼間愛姫のところに遊びに行ったはずだ。そこで左衛門と何か話をしたのだろう。憂鬱そうだが真剣な様子の息子に父母は足を止め、息子の視界に屈んだ。
「政宗様が天狗は人を攫うとおっしゃったのか」
小十郎が聞けば左衛門はこっくりと頷いた。確かに天狗は人を攫う、という言い伝えがあるが、たしかそれは子どもが対象であったはずだ。政宗が左衛門から天狗の面の話を聞いて、攫われないように気をつけろよ、とからかい半分に言ったのならわかるが、左衛門は己ではなく母の心配をしている。
左衛門は母の手をぎゅっと握って訴えた。
「てんぐさまは、さえもんにけんをおしえてくれるかわりに、ははうえのところにいくかもしれないって、まさむねさまいってたの」
「母のところに?」
蔦が目を丸くして聞くと、左衛門はまたこっくりと頷いた。
「どうして?」
「てんぐさまは、ははうえがすきなんだって!」
言うが早いか、左衛門は遂に泣きだしてしまった。オンオン声を上げ始めた息子を蔦は抱き上げて、よしよしと体を揺すってなだめる。その間にも左衛門は涙声で危険を訴えた。
「よるにっ……ははうえの、しんじょに、しのびこんで、ははうえっ、いじめるってっ、まさむねさまいってた!」
「いじめるの? 母を寝所で? 天狗様が?」
蔦が意味がわからず問い返すと左衛門は手の甲で懸命に涙を拭いながらまた訴えた。
「なかせるっていってたの!」
「……」
「でもさえもんがははうえとねんねしたら、てんぐさまははうえにわるさできないってまさむねさまいってた!」
だからさえもん、ははうえをまもるの――そういう息子の声に、小十郎の妙な呻き声が重なった。
「小十郎さま?」
蔦が問えば、小十郎は
「物のわからない子どもだと思って……悪戯が過ぎますな……」
などと言った。そこで蔦ははっとした。
あの天狗の正体は小十郎である。だが左衛門はそれを知らない――知らないから、政宗は面白半分で家臣の息子をからかったのであろう。「天狗はお前の母が好き」だと。それを踏まえれば、政宗が言う「天狗が寝所で母をなかせる」というのは艶事の暗示であろうことが簡単に推測できた。だが何も分からない左衛門はそれをそのままの意味で――天狗に母がいじめられるものと受けとった。政宗自身が幼子相手にそこまで計算していたかはずがない。多分簡単なからかいのつもりであっただろう。だが左衛門はそれを必要以上に真剣に受け取った。
蔦はその事に気付いて、瞬時に真っ赤になった。それから、慌てて息子に言い聞かせる。
「大丈夫ですよ、左衛門。母は天狗を退治する呪文も知っていますから」
すると、息子は涙を拭って母を見た。
「ほんと?」
「ええ。天狗様は鯖がとっても苦手だから、鯖食った、と言えば大丈夫なのですよ」
「ほんと!?」
「ええ、本当です」
蔦が言ったの一般的な天狗の撃退法であるが――小十郎が鯖が苦手だと言う事実はない――左衛門は安心したらしい。よかった、と呟いてまたおいおい泣き始めて、蔦はまた体を揺すった。それから夫に目を移すと、夫の後ろへ撫でつけた前髪がはらりと一筋落ちたのでさすがに慌てた。
「小十郎さま……、落ち着いてくださいませ……ね?」
「俺は落ち着いてるぜ……ただ、久々に雷を落とさなきゃならねぇなと思ってちょっとばかり、な」
「……」
だが父の言葉をどう解釈したか、息子が力を得たように言った。
「ちちうえ、てんぐさまがわるさしたらおこってくれるの?!」
すると、小十郎はニヤリと笑った。
「天狗は悪さはしねぇ。ただ、ちぃとばかり喝を入れる必要なある悪戯が過ぎる竜がいただけだ」
小十郎の凄絶さを感じさせる笑みに、左衛門は父の頼もしさを感じ――蔦は明日の政宗の身を思ってため息をついたのだった。

(了)

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2011年4月24日初出
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