酒と産には懲りたものなし

夜中――左衛門はぱっちりと目を覚ました。暗い部屋の中、見回せば隣で寝てくれていたはずの母がいない。猫のトラがすぴすぴと鼻音を立てて腹を出しているだけである。
「うー、ははうえー」
呼んでみても母、蔦の応えはない。不安になった左衛門は寝床を抜け出し、大きな戸を引いて板張りの廊下へと出た。
廊下は暗い。きょろきょろと左右を見れば、先はどちらも暗闇へと溶けている。
「ははうえー」
と呼んでも声は闇へと吸い込まれていくばかり。左衛門は一瞬、部屋に戻ろうと振り返ったが、見れば、布団の向こうにも闇がある。そこから何か覗いている気がして、とてもトラの傍らに戻ることはできなさそうだった。
左衛門は三方を見比べた。
戻るか、左右どちらに行くか。片方は厠で、もう片方は居間や厨へと続いている。べつに厠に今、用はない。というか厠へ行く方へはきっと何かがいるに違いない。物の怪の類のことだ。奴らはぴったりと壁や天井に張り付いている。そして暗闇から一つ目や三つ目でこちらを見ているのだ。左衛門はその目に向こうから見つめられた気がして、あわてて居間の方へと駆けだした。だが走る間も、その障子戸が開いてわぁと何かが出てくるのではないか、そこの壁の木目模様に化けたのがぱっくりと自分を食ってしまうのではないか――言い知れない恐怖を感じて左衛門は小さな足で廊下をかけた。
やがて、板張りの廊下の向こうに闇が途切れているところを見つけた。一室から明かりがもれているのだ。
居間だ。
左衛門は追って来ているだろう物の怪たちを引き離すように足を速めた。そして、光の陣地に入りこみほっとする。物の怪は明るいところが苦手だから、そこに入ればもう大丈夫なのだ。
そして、そっと明かりの洩れている障子戸に手をかけた。ず、ず、と戸が動く。明かりがさらに廊下に漏れてくる。それと、何かの香り。左衛門はぐいと戸を押した。開ければ、案の定母である蔦がいた。
「あら、左衛門」
「――」
だが明るく呼び掛けてきた母に、左衛門は口をへの字にして返事をしなかった。
「どうしたの、いらっしゃい。ひとりできたの?」
言いながら手を伸ばしてくる母は、いつもなら歩み寄って抱き上げてくれる――だが今夜の蔦は座ったままで、おいで、と手を伸ばすばかりだ。左衛門はぎゅっと寝巻の膝の少し上あたりを握った。そして母が立ちあがらない理由をにらみつける。
母の傍らには酒とそれを楽しむための道具一式が膳に乗って置いてある。だが母が迎えに来てくれないのはそれが理由ではない。
――そこは左衛門のなのに。
と左衛門はまたぎゅっと唇をひき結んだ。
蔦の膝を枕にして、父小十郎が横になっているのだ。
いつもなら膝の上は左衛門の場所なのに、と左衛門は思ったのだ。
父はこちらに体を向け、寒いのか腕を組む形をとっているが目はしっかりと閉じている。母はその横たわる肩に、左衛門をあやすときと同じく片手を置いている。
「どうしたの、いらっしゃい」
重ねて言われて、だがむっとしたまま左衛門は居間に入った。そして母の目の前で手を広げる。
「だっこ」
すると蔦は困った顔をした。膝のほとんどは小十郎が占領しているからだ。
「父の反対側にお座りしましょうか」
蔦はそっと腿を叩いて自分の横に座るよう左衛門を誘導しようとした。だが左衛門はぶんぶんと首を振る。
「だっこ!」
左衛門はトン、と踵を一度上げ、音を立てる。蔦はますます困った顔をした。
「こちらにいらっしゃい。ぎゅーはできますよ」
重ねて小十郎が横になっている反対側を示すが、息子はがんとして譲らなかった。手を広げてだっこをせがむ。
「うー!」
困り果てた蔦が、頬に手を添えた時だった。ひょいと左衛門の視界がひっくり返った。「?!」
「まあ」
蔦が微笑ましそうな声をあげた。気づけば、いつ間にか左衛門は横にされ、父の腕の中にしっかりと納められていた。
「ほれ、父が抱っこしてやる。がまんしろ」
がっちりと羽交い絞めにされ、左衛門は暴れた。
「やー!ははうえがいいー!」
すると小十郎は笑いだした。
「母は父がいいんだ」
左衛門は父の物言いにまたムッした。が、そんなことよりも。
「おさけくさいー!」
左衛門は小十郎の頬の傷辺りに手を当てて、ぐっと父を遠ざけようとした。だが小十郎は笑うばかりだ。
「酒飲んでるから当たり前だろ。なぁ」
「い、やー!」
左衛門は必死だ。だが父にはどうやってもかなわない。
精一杯の抵抗を見せる息子が面白いのか、小十郎が珍しく頬ずりをした。左衛門はぎょっとした。ざりざりする。
「おひげいたい!」
またしても父を遠ざけようとするがやはりうまくいかない。夜ともなれば朝剃刀を当てたひげも伸びてきているのだろう。子どもの柔肌には酷である。小十郎は面白そうに笑うだけである。
「父上、あんまり左衛門をいじめないでくださいな」
蔦が苦笑しながら言うと、ぱたぱた暴れる息子を抱えたまま小十郎は見上げた。
「いつもいつも母上、母上ばかりじゃ俺がつまらねぇ」
小十郎は蔦の膝の上で自分の頭の位置を直すと仰向けになり、胸の上へ左衛門を抱え上げた。
「ほら、これで機嫌直せ」
やや痛い目に合って涙目になっている息子を、小十郎は高い高いと持ち上げて見せた。幾分前より重くなった息子を腕に感じる。二、三度そうやってやれば、左衛門が笑いだした。
「そら、鷹になるぞ」
小十郎はそう言ってぐっと腕を伸ばし息子を高く掲げた。
いちばん高くまで持ち上げられた左衛門が歓声をあげ、ぐっと手足を伸ばした。
「そうだ、うまいうまい」
母の顔の高さになった息子を、そちらへ近づけたり離したりする。妻と息子が笑って、小十郎は満足した。
――しばらくして、遊んで機嫌を直した左衛門が父の胸の上で寝息を立て始めた。
「お疲れさまでした」
蔦の笑いを含んだ声が降ってくる。小十郎は息子の頭を撫でながら言った。
「別に何もしてねぇよ。鍛錬に比べたら苦でもないな、少し重くなったが」
「ええ、大きくなっておりますよ」
「じゃあそのうち苦になるか」
「ええ、きっと」
そっと蔦の手が髪を撫でてくる。悪い気はしない。
「いいことなんだろうな、それは」
息子の成長について言えば、蔦も言う。
「少し寂しい気もいたしますが」
小十郎は手を伸ばして妻の頬に触れた。
「でもでかくなったら稽古をつけられるな。楽しみだ」
その手に触れながら蔦は苦笑する。
「あんまりいじめないでくださいね」
「稽古だ稽古。親父が息子いじめてどうするんだ」
言うとくすくす蔦が笑った。その顔を見ながら小十郎は不意に思った。
――痛めつけるなら、生まれる前に十分した、か。
小十郎がふと暗くなった表情を見せると、それに気付いた蔦が手を握ってきた。
「――今日は三人で眠りましょうか」
「――そうだな」
小十郎は言って、左衛門が起きないように注意しながら身を起こした。そして息子を抱えたまま立ちあがると、蔦が膳を片付けるのを待って寝所へ向かった。翌朝、少し早くに目を覚ました左衛門は父と母に囲まれていることに気付いて上機嫌になった。
そして、仲間外れにされてしまった大事なトラが廊下で寂しげに鳴いているのに気づいて父と母がまだ眠る部屋へと猫を招き入れた。そしてトラとともに父と母の間にまた戻る。すると起きているのかいないのか、父と母が自分に触れてきた。左衛門は物の怪が出ても皆いるから大丈夫、とまた眠りに落ちた。

(了)

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2010年9月17日初出 2010年11月08日改訂 2011年4月17日再掲載
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