「頑張って泊りがけでお仕事してきた結果がこれだよ!」


手箱を開けたら目があった。それだけのことであるが、蔦には十分すぎた。蔦が蓋を持ち上げてかたまっている間にソレはスルリと手箱を抜け出した。体のすぐ横を走られて、ぞわりと背筋が震えた。そして。
「きゃあああああ!!!!」
嫁入りして初めて、蔦は腹の底から悲鳴をあげた。その声に女中頭をはじめ、使用人たちがすっ飛んできた。
「奥さま?!」
蔦は手箱を放り出して、腰を抜かしていた。
「どうなさいました!?」
蔦は声をかけてきた女中頭を見上げて、呆然と呟いた。
「鼠が、手箱に」
「……」
「……トラはどこです、とってもらいます」
涙声で言う奥さまに使用人たちはなんだ、と息をついた。


動物が好きな蔦にも苦手なものがある。それが鼠だ。なんでかはわからぬ。幼少期にひょいと蔵で古布を取り上げたらそこに桃色の毛も生えそろわず目も開かないうぞうぞ動く鼠の赤子を目にしたからかもしれない。あとあの小憎たらしい顔がだめだ。何か企んでいるに違いない。日の本転覆とか。きっとそう。
さてこんな時に限って小十郎は城に詰めている。毎月この時期は、様々な月末の整理があるとかで、屋敷に戻るのが惜しいほど忙しいのだ。
故に、小十郎はしばらく屋敷をあける。
そんな夫にまさか「鼠が怖いから帰ってきてくれ」などと言うわけにもいかない。
そしてその次に頼りになる猫のトラはというと、今は外で「なぉんなぉん」と声をあげてつがう相手を探しているので滅多に帰ってこない。帰ってきても飯時だけである。使用人たちは忙しい。蔦は普段は気にも留めない小さな物音に怯えながら過ごすことになった。昼は忙しく動いているので大丈夫だったのだが、問題は夜である。一人きりで体を横たえていると、カタンだかコトン、だかいう物音が耳についた。風が戸を揺らす音にすら飛び上がった。そこの暗闇からじぃっと鼠が見ているのではないか、あの物音は鼠が近づいてくる音ではないか。蔦はそれを思って布団を頭までかぶった。
だがそれでも上手く眠れずに、小さな物音で目を覚ます。別に小十郎がいれば追い払ってくれるとかそういうことはないのだが、安心度が違う。
それとトラ。一匹でもやっつけてくれれば違うのに、と蔦は思う。
――けれど私も武人の妻、
だが蔦は思いなおす。
――己の身は己で守らなければ。


そして数日後。
「――おかえりなさいませ」
「ただいま。……隈あるぞ、どうした」
「……なんでもございません」
久々に帰ってきた夫を迎える蔦はぐったりしていた。フラフラと戻っていく蔦を心配そうに見つめる小十郎に女中頭が耳打ちした。
「実は鼠が出まして」
「……出るだろ、そりゃ」
小十郎が眉を寄せて言うと、女中は続けた。
「それが奥さまの手箱の中から。はじめてお聞きしましたよ、奥さまの悲鳴」
「……、本当か」
小十郎は蔦が鼠を嫌うのをなんとなく気づいていた。トラが誇らしげに見せに来る鼠に、顔を引きつらせつつ猫を褒めて、誰かに片付けさせるからだ。
成程、と納得して安堵の息をつく。たしか蟷螂もダメだったなぁ、などと思いだして小十郎は妻の珍しい点を見つけてほほえましく思った。蔦は小十郎が留守にしている間、鼠に怯えてすっかり寝不足になっていたのだった。

やがて床を延べて横になる時間になる。蔦はここ数日でやっとほっとする思いで横になっていた。鼠が出ても小十郎がきっとなんとかしてくれる――かどうかはわからないが(その場で油虫のように潰されても泣きたくなるだけだろうし)、ともかく安心度が違う。瞼が素直におりてくる。今日はよく眠れそうだ。
その時だった。掛けられたものを一度上げて、背を向けた蔦に寄り添ってくるものがある。蔦より体温が高いものだ。大きな手が優しく髪をかきわける感触がして、うなじに温かいものが触れる。
「……蔦」
耳元で低く、だが甘く誘うように小十郎が名前を呼んでくる。蔦は無理やり瞼をあげる。
「ん」
と声を出せば仰向けにされて組み敷かれる。そういえば明日は暇をもらったとか聞いたような気がするが覚えていない。唇が重ねられる。妙に熱い。寝巻越しに優しく肩や腕を撫でられ、顎や喉にも夫の唇が触れていく。そして夫の手が寝巻をしっかりととめている帯にかかった時だった。
「嫌です」
妙にきっぱりと蔦は言ってその手に手を重ねてそれを妨害した。
「……え」
甘い駆け引きかと思って顔をあげた小十郎の目に不快気で、それでいて睡魔に負けそうな蔦の顔が映り込む。
「嫌……眠い」
眠気にとろんとした目で言われて、小十郎は戸惑った。
「……ねむいんです」
「――」
嫌と言われて収まるはずもなく、小十郎は気を取り直して蔦のこめかみに口づける。
だが。
「いや」
子どものように顔を逸らされて、胸を押し返される。小十郎はさらに戸惑った。その間にも、蔦は眠りに落ちようとしている。瞼が閉じかけ、呼吸が深くなっていく。
小十郎には眠りに落ちていく妻が妙に艶めいて見える。そしてこの上ないほど無防備。だが。
だが。
「――ッ」
小十郎は必死に己を抑え込んだ。眠いという妻を襲うほど無粋には彼はなれなかった。そして出た言葉がこれである。
「――御意」


翌朝。
蔦がスッキリパッチリと目を開けると、小十郎と目があった。恨みがましい顔をしている。はて、何かあったのだろうか。
「おはようございます」
「……おはようじゃねぇよ」
むっつりと言う夫に首をかしげる。その間に小十郎はひょいといじけたように蔦に背を向けた。蔦は身を起こし、伸びをした。
良く寝た、と蔦は思った。頭がすっきりする。そういえば小十郎は何故不機嫌なのだろうと思って昨夜のことを思い出す。小十郎が布団にもぐりこんできたことは覚えているが、その先はあんまり覚えていない。そういえば「御意」とかなんとか聞こえたような気がする。はて、なんのことやら。
「小十郎さま?」
言ってそっと夫の横になった腕に触れ、むこうを向いた夫を覗きこむ。小十郎は子どものようにへそを曲げているようだ。
「あの、昨夜、御意とか何かおっしゃいませんでしたか。どうしました?」
すると小十郎はすっとこちらに顔を向けてきた。
「それ以上言うと襲うぞ」
その言葉にぱっと蔦が小十郎から離れた。そして寝巻を整えて寝床を出る。さっそく働き者の妻になって逃げ出した蔦に、小十郎はため息をついた。
「……後で覚えてやがれ」
なにせ猫も盛る時期なのである。仕方のないことだった。その後、蔦がまた寝不足になったかどうかは――本人のみぞ知る。

(おわり)

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2010年10月10日初出 2010年10月14日改訂 2011年4月17日再掲載
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