Amoris vulnus idem sanat, qui facit.
 其の壱


記紀と照らし合わせれば、それは神功皇后の頃だという。
その日に南蛮の――、すでに滅びたという大国羅馬にてある人物が処刑されたという。
彼は南蛮の神の神官――あちらでは司祭、とかいうらしい――で、名をワレンチヌスと言ったらしい。政宗の南蛮綴りによればValentinus、正しい発音は「ウァレンティヌス、だ」とのことである。
羅馬国を治める“かえさる”――つまりはこちらで言う帝に逆らった罪で処刑されたというが、政宗から聞かされたその反逆の内容というのに小十郎は少々眉を寄せることとなった。
当時、羅馬国では下級兵士が家庭を持つことは禁じられていたと言う。羅馬の帝――ひどく長い名前で政宗以外は誰も彼も舌を噛んだ――は、兵が妻帯することにより戦で士気が下がることをひどく恐れたという。なんでも当時の羅馬国は今の日の本の群雄割拠の状態とほぼ同じか、よりひどいものであったらしい。
しかし人の世の色恋沙汰というのは、お上がいくら禁止しようとしても在り続けるものだ。
惹かれあっても一緒になることを許されぬ若い男女を憐れんだのが、司祭ウァレンティヌスであったという。
神官に相当する職にあったウァレンティヌスには祝言をとりしきることが許されていたのだ。ウァレンティヌスはその特権を利用して、若い男女の祝言をそっと隠れてとり行ってやったという。
だがこのウァレンティヌスの行為はやがて帝に伝わることとなった。もちろんその行為は帝の怒りを買い、ウァレンティヌスは投獄され処刑された、という。
だが下々の人々は彼の帝の怒りをおそれなかった優しさを忘れないために、彼の処刑された日を愛する者同士が互いに贈物をする日と定めたという。
それが二月の十四日のことであるという。
――まあ、羅馬の帝の気持ちもわからんでもない。
と、小十郎は自分の若いころを思い出して思う。小十郎もごく若いころは、所帯を持つということはそれ即ち戦場での恐れや臆病に繋がると思っていたからだ。
だが結局妻を迎えて子を持った小十郎には、ウァレンティヌスの行為もわからないわけではなかった。それに所帯を持つというのは一概に兵の士気を下げるものではないとも知っていた――これは夫であり父でもあるのと同時に軍師である小十郎には今やわかりきったことであった。兵というものは、守らなければならないものがあると自然、弱くなるよりもむしろ強くなるのだ。自分の背に親や子や妻がいると、それを守ろうと兵はがむしゃらに戦うのだ。
陣中にて没したというその羅馬の帝はそれを知らなかったのだろうか。あるいは――兵が守りたいと思わせる国を作れる帝でなかったか。そのどちらであるかは小十郎にはわからなかった。


――さて。
小十郎がそんな大昔の海の向こうの出来事に想いを馳せるのにはわけがあった。
昨年、南蛮文化を好む政宗がこのウァレンティヌスの日を奥州にも引き込んだのである。
政宗は異様に甘ったるい黒いもの――チョコレート、とかいう木の実から作った甘味である――で覆った、小麦と卵と砂糖を練って作ったケーキという菓子を自らで作り愛姫に贈った。それが下々にどう伝わったか、政宗を真似るものが続出したのである。ただしそれは男の間にはあまり広まらず――政宗のように粋に振舞うことができないと思ったのかもしれない――ウァレンティヌスの日の贈り物はむしろ若い女たちに歓迎された。日頃意中の者に表立って行動するのははしたないとされるのは女たちであるから、これを年に一度の好機ととらえたらしい。
そして恋人たちあるいは誰かに心を焦がす者は、政宗と愛姫に倣ってチョコレートを贈りあったり、一方的に贈りつけたり断られたりしたという。
そして今年は、各々個人でチョコレートを加工するのが大変面倒であることに目を付けた商人たちが、恥ずかしがる男たちより一日限り大胆になれる女たちに標的を絞って城下で一カ月ほど前から商売合戦を繰り広げている。
しかも商人たちは抜け目なく、「日頃お世話になっている方にも感謝の気持ちを伝えよう」とか垂れ幕を垂らして「義理チョコレート」なるものまで編み出した。おかげで城中にも城下にも異国由来の甘ったるい香りが溢れている。
しかも流れてきた噂によると「義理」でも「本命」でもなんらかの贈物を受け取った者は、一か月後に贈物の金銭にして三倍に当たる返礼をしなければならないと言う。
――やれやれ、平和なこった。
一ヶ月後の三倍返し、は南蛮にはない風習である。商人というのは知恵が回るよなぁ、と小十郎は珍しく呑気に考えた。

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