Dragon in The Rain
 其の弐


しばらく歩くと、少し小高くなっているところに寺が見えた。そして、そこへと続く道の先の階段の上に蔦はその姿を見つけた。
「あ、小十郎さ――」
背の高い良人の姿に思わず駆けだしかけた蔦の足を、止めたものがある。
鋭い剣戟の音――何物をも寄せ付けぬという空気を放つ夫の背中、そして
「人が幸せになってこその天下だろ!」
耳慣れぬ、若い男の声だ。
「戦場で血を流して死ぬより、好きな人に看取られたいと思わないか――!」
蔦はその言葉に驚いて動く事が出来なくなった。まるで見届け人のように立つ小十郎の向こうに政宗と――声の主が打ちあう様子が見えた。
「天下取りってのは、――笑って泣いて楽しく暮らせる、そんな世のために!」
政宗の声は聞こえない。
誰かがこの先で政宗に理想を説いている。小十郎はただ黙ってそれを見守っているのだ。蔦は政宗がどう答えを返すのかと思わず息をとめたが――やはり年若い夫の主の声はひとつも聞こえてこなかった。
だがやがて地を蹴った政宗が六の刀をその手へと呼ぶと刀は応えて――辺りに何者かの咆哮が響き雷撃を纏う竜神が一挙に空へと駆けのぼったのだった。
竜の纏う雷撃に目がくらんで蔦は目を閉じた。


白く染め抜かれた視界がもとに戻ると――竜が雨を去らせたか、雨は止んでいた。
雲間から地上へ、天から梯子のように光が伸びている。
蔦はぽかんと口を開けて思わず天を仰いでしまった。
そして視線を戻して寺の方を見れば、先ほどの声の主の青年は政宗に吹き飛ばされたようだった。しばしの間の後、政宗が小十郎を従えて歩いていく。蔦の右手側へと歩む奥州の独眼竜はしっかりと前だけを見据えていた。
それを低い位置から見守っていると――野良着姿の小十郎が晴れたというのに傘を差したままの妻に気付いたらしい。歩調を僅かに緩めて顔をこちらに向けた。
蔦がその視線に困ったように小首をかしげると、小十郎は笑った。その顔からは憂いがとれた様子が見て取れた。そして、夫はそのまま前方に向き直ると主に従って行ってしまった。
蔦はため息をついて、傘差したまま寺の階段を上った。
「いてて……」
境内を見れば先ほどの声の主が尻もちをついたままであった。
「派手にやられましたねぇ」
思わず笑って声をかけると、青年は驚いたようだった。
「あんた――見てたのかい?」
「はい。少しばかり。政宗さまに弾き飛ばされたくらいで済むとは、お強いのですね」
すると青年は照れたように頭を掻いた。その青年の肩に、可愛らしい猿が一匹。
「まあ、お猿さん。お猿さんもご無事ですか?」
蔦が笑って声をかけると猿は
「キ!」
と愛想よく答えた。
蔦はそんな青年と猿の傍らに歩み寄るとその場に屈んだ。その間に青年は巨大な得物を鞘に収めていた。猿が屈んだ蔦の膝に飛び乗ってくる。蔦は少し驚いたが、優しい顔をした子猿に蔦は思わず笑みを向けて、その頭を撫でた。小猿は嬉しそうにキイと言った。それを見た青年が笑う。
「あんた、いつまで傘差してるんだい? あ、誰か迎えに行くところだったのかな?」
言われて蔦は苦笑して持っていた傘を置き、差していた傘をたたんだ。それから辺りを見回して、境内に転がる真っ二つになった傘を見つけた。
「夫を迎えに来たのですが――晴れてしまいました。あれはあなたの傘でしょうか? また雨が降るかもしれませんから、一本どうぞ」
「ああ、あの傘は確かにオレのだけど――いいのかい?」
差しだされた傘に青年が戸惑った。蔦は頷く。すると青年は笑ってそれを受け取った。
「でもこれでまた雨が降ったら、旦那さんと相合傘だね! なんかいいなぁ、そういうの」
明るくいう青年に蔦は苦笑する。
「さあ――どうでしょう。むっつりなさって雨の中をお歩きになるかもしれません」
「なんだか気難しい旦那さんだねぇ。それにしても、この傘、本当にいいのかい?」
「ええ。夫の主君がなさったことですから。そうでしょう、あの真っ二つの傘」
「夫の主君……?」
青年はふと首を傾げた後、にっこりとした。蔦は少しだけ小首を傾げた。
「もしかしてあんた、竜の右目の奥さんかな」
「ええ。蔦と申します」
「俺は前田慶次。あんたの膝にいるは夢吉。――それにしても、いいのかな、そんなに身分簡単に明かしちゃって。俺が悪い奴だったら、マズいんじゃないの、竜の右目の奥さんとしては」
キイ、と夢吉といわれた猿まで心配そうに見上げてくるので蔦は笑ってしまった。そして夢吉の頭をまたひとつ撫でる。夢吉は嬉しそうに目を細めた。
そのときふと――夫に似た声の何者かが耳の奥で囁くのが聞こえた。
――「笑って泣いて楽しく暮らせる世」。そいつの言っていることは確かに理想的だが、現実的じゃねぇ。
蔦はその声に少しだけ顎を引いた。だがすぐに蔦は慶次に微笑みかけた。それから竜の右目の妻は、内心に響いた声と目の前の青年に向かって言う。
「――笑って泣いて楽しく暮らせる世を語る方が悪い方なら、誰も信じられなくなりますね」
「あ――聞こえてたんだ」
そこで、慶次はよいしょっと立ち上がって砂を払った。ぴょんと夢吉が慶次の肩に戻った。それにつられて蔦も立つ。
「怪我は大丈夫ですか? 必要でしたら手当てを――」
「いんや。大丈夫! オレって結構頑丈でさ」
人懐っこい笑みで言う慶次は、やはり悪い人ではないだろうと蔦は笑う。その蔦の笑みに慶次は、ふむ、という顔をする。
「さっきのほっかむりしてたのが竜の右目だろ? ずいぶん強面に見えたけど、奥さんは可愛いねぇ」
「え――?」
「雨が降ったら迎えに行く、なんてさ。竜の右目は雨なんか気にしてない感じだったけど――独眼竜の右目の奥さんほどの人が自分で迎えに来るなんて、よっぽど旦那さんの事好きなんだね」
慶次のあけっぴろげで素直な言い方に蔦は思わず赤くなってしまった。それを見て慶次はまたにこにこする。
「ほら、やっぱり可愛いね! うん、そういうのがいいんだよなぁ。やっぱり戦の世の中じゃなくてさ」
蔦は深呼吸をした後、苦笑した。
「私の事は、わかりませんけど――そうですね、やっぱり笑って暮らせるほうがいいです」
「そんな世のために、独眼竜は協力してくれるかな?」
解っているだろうに聞いてくる慶次に蔦は笑いかけた。それから晴れた空を見上げて言う。
「雨の降る様子で――竜の大きさがわかるそうですよ。竜は水神だから」
蔦の言葉に慶次はそっか、と笑った。それから彼も空を見上げて、うん、と頷いた。


日がすっかり落ちた後に屋敷に戻った小十郎は傘を持っていた。それは蔦が慶次に貸した傘だった。
「前田の風来坊と話したのか」
とだけ小十郎は言ったので、蔦は頷いておいた。あの後、慶次は再び政宗のもとを訪れたとみえる。
左衛門と共に夕餉を済ませて、二人きりになると蔦は言った。
「小十郎さまは雨を見て竜の器を思っていらっしゃったのですね」
すると、小十郎は口元だけで笑った。
「そんな所か――それに、雨っていうのは悪いもんじゃねえしな。雨が降らなきゃ日照りになる。人にも作物にも、雨もお天道様も、どっちも必要だ。政宗様は雨を降らせることもできるし、止ませることもできる」
「――ええ」
初陣のときから竜のそばを片時も離れたことない――いや、その以前から独眼竜を見守る小十郎だからこそ、政宗が自ら“何か”に気付くことを待っていたのだ。
例えるならば竜が自ら雨を止ませることを。雨を操れぬ竜は水神ではない。恐れを知らず力が強いばかりで雲の踏み方、玉の使い方も知らぬのであればそれはただの蛇だ。そして政宗は蛇ではない。
小十郎は立ち上がって障子戸を開けた。庭は闇に溶けていて、昼間降った雨のせいで水と土のにおいがする。
小十郎がそんな庭を眺めてため息をついた。何事かと思って蔦は立ち上がり、その隣に立った。そして夫を見上げる。小十郎は妻の視線に気づいただろうに前を向いたまま言った。
「そうだ――竜の大きさは知っているから、雨もいつ止むのか推し量ることもできる。だが――蓮がわからん」
「……蓮、ですか?」
「ああ」
首をかしげる蔦だが、小十郎は前を向いたままだ。
「蓮の花は見えているんだが――池の大きさも池の深さも未だにわからん」
「――? 愛姫さまでしょうか」
蔦が尋ねると、小十郎が盛大にため息をついた。
「愛姫様は桜だろう――それも見事な、な」
「――」
小十郎はそこでようやっと傍らの妻を見やった。それから妻の顎に手を添えて少し顔を上向かせて、その目を覗き込む。
「池が深すぎて見えねぇのか――あるいは、俺はお釈迦様の座れるほどでかい蓮を遠方から見ているだけなのかもしれんな」
蔦は数度、目を瞬かせた。小十郎の言う蓮、とは自分の事なのだと悟ると同時に少し不思議な気がする。花に例えられたことなどないからだ。
「どうでしょう――意外とレンコン畑のちっぽけなハスかもしれませんよ?」
蔦が言うと、小十郎は一瞬面喰った顔をした。直後、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。その様子に、今度は蔦が面喰う。
何がツボにはまったのか、小十郎の笑いは次第に大きくなって蔦の顎から手を離すと蔦の肩口に顔をうずめるまでになってしまった。
「こ、小十郎さま?」
笑いに震える小十郎の背に腕を回すと小十郎が蔦をぎゅうと抱きしめてきた。
「レンコンか――まったく、花は綺麗で根も食えるとは。贅沢だな」
「あ」
言われて蔦は腕の中で気づいた。
「あ、あの別に私、そのような贅沢な例えで言ったのではなくて、その、お釈迦様とか大げさなことをおっしゃるからもっと――」
肩口で小十郎がため息をつくのが聞こえた。肩に息がかかって、蔦はビクリと体を震わせた。
「――違う」
「――はい?」
「贅沢なのは、俺だ」
「――え」
肩から小十郎の額が離れた。だが体はピッタリとくっついたままだ。蔦はまっすぐにまた目を見つめられる。
「皮肉で言ったんじゃねえよ――わかれ」
「え、あ――はい」
蔦は困り果てたように言った。すると小十郎も困った顔をした。だか困りつつも、その顔は満足げだった。
「まったく、本当にわからねぇな。ただ蓮が綺麗で池はでかそうだ、っていうことしかわからねぇ」
「――」
蔦は小十郎の婉曲な褒め方に気付くと真っ赤になって、だがその顔を見られたくなくて小十郎の胸に顔を押し付けた。その蔦の髪を撫でながら小十郎は言った。
「明日は出立だ――顔を見せてくれ」
蔦はそうっと良人の胸から顔をあげた。見上げて蔦は、雨が降らないから小十郎のほうこそわからないことだらけだ――と思った。

(了)


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2011年1月16日初出

引用:日蓮『報恩抄』
参考抜粋:
「天竺は七十箇国なり総名は月氏国・日本は六十箇国・総名は日本国・月氏の名の内に七十箇国・乃至人畜・珍宝みなあり、日本と申す名の内に六十六箇国あり、出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝・人畜乃至寺塔も神社もみな日本と申す二字の名の内に摂れり、天眼をもつては日本と申す二字を見て六十六国乃至人畜等をみるべし・法眼をもつては人畜等の此に死し彼に生るをもみるべし・譬へば人の声をきいて体をしり跡をみて大小をしる蓮をみて池の大小を計り雨を見て竜の分斉をかんがう、これはみな一に一切の有ることわりなり」
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