竜の踏む雲
 其の一


うわぁん、という幼子の泣き声が辺りに響いた。
その声にわずか先を歩いていた母親らしい女が慌てて転げた男児に駆けより、助け起こす。着物についた砂を払っていると、息子が膝を擦りむいていることに気付く。
「まぁ、どうしましょう」
その母は竜の右目と名高い片倉小十郎の妻、蔦であり、子はその息子左衛門であった。
擦りむいた膝に唾をつけるしかないか、と思った所に声が掛けられた。
「お困りのようであるが……」
振り返れば、長い髪を一つに縛った旅装束の青年と、薬箱を背負った男がひとり。おそらくその男は薬売りだろう。薬売りの男の笠の中から、珍しい橙色の髪がのぞいている。
「いえ、息子が転んでしまいまして。ちょっと擦りむいただけですのでお気遣いなく」
蔦が思わず言うと
「なんと!」
と青年が声をあげた。それから薬り売りの男を呼びつける。
「傷口に付ける薬があったな! 分けて差し上げよう!」
「え、ちょっと旦那。一応コレ売り物なんだからさ〜」
もっともな言い分をする薬売りに対して青年は頑として譲らない。やがてヤレヤレと声をあげて薬売りが薬箱を下ろした。そしてひとつ抽斗をあけて薬を取り出すと左衛門の傍らに屈んだ。
「はいはい、ちょっとしみるよ〜」
「すみません」
あんあん泣く子の膝を水筒の水で洗ってから薬売りは薬をぬってくれた。その間に青年はごそごそと懐を探ってなにやら取り出した。
そして彼も左衛門の傍らに屈みこむ。
「うむ、男子たるもの、そのように泣き声をあげてはいけない。とはいえ、痛かっただろうから、これを食べて元気を出すといい」
そう言うと、青年は泣いているために開きっぱなしの左衛門の口の中にひょいと何かを入れた。反射的に口を閉じた左衛門がピタリと泣きやんだ。
そしてしばらく口をもぐもぐと動かした後、泣き笑いの顔になって高い声をあげた。
「あまーい!」
「まあ」
泣き顔のまま喜ぶ息子に蔦は驚いた。青年はニコニコして蔦に告げる。
「飴でござるよ。あといくつかあるから、さしあげても構わぬだろうか」
広げた掌の上にいくつか飴を乗せて子どもの母に見せるようにしながら律儀に聞いてくる青年に蔦は戸惑う。
「いただいてもいいのですか」
「ああ、構わぬ」
「でも、見ず知らずの人に。薬を塗っていただいたのにこれ以上飴までいただけません。申し訳ないです」
するとその言葉に青年が気付いたようにはっとして立ち上がった。それから大きな声で口上を述べ始めた。
「ならば自己紹介をせねばならぬな! 某は甲斐から参った……」
「あーっと!」
その様子に屈んでいた薬売りが声をあげた。どこか慌てているようなその動きに蔦と左衛門はびっくりした。だが薬売りはめげずににっこりとして立ち上がり、青年の口上を遮りながら言った。
「俺たちは薬の行商をやってる者です。こっちは問屋の若旦那の源二郎どの。見聞を広めるために俺の行商についてきたの」
「そうですか。甲斐から遠いところを……甲斐? 越中、ではなく?」
薬と言えば越中の物が有名なはずである。甲斐の薬とはあまり聞いたことがない。蔦が思わず首をかしげると薬売りが笑った。
「ま、薬の大本は越中なんですけどねーあははー」
蔦と薬売りがそんなやりとりをしている間に、左衛門は源二郎から飴をもらってすっかり機嫌をよくしていた。それを見て蔦は微笑む。それから蔦は左衛門を抱きあげて二人に向き合った。
「あの、もしよろしければお礼にお団子などを御馳走させてください」
蔦が言うと、誰より早く青年が反応した。だが薬売りがそれを制する。
「あー……でも悪いっすよ」
「いいえ。私たちもちょっと一休みしていこうと思っていたので」
にっこり言う蔦を見て青年が
「断っては失礼にあたるぞ、佐助!」
と言った。その言葉に蔦は笑い薬売りはため息をついた。それからふと行商人は微笑む蔦の顔を何とはなしに眺めた。それからはっと何か気付いた顔になり、じゃあ御馳走になろうかな、と言った。蔦にはそう言った薬売りの視線が少し鋭くなった気がしたが、思わず首をかしげた時には薬売りは人好きのしそうな顔をしていたので思い違いかと流すことにした。
そして団子屋への道すがら、蔦も二人に自分と息子の名を告げた。その後薬売りが世間話のつもりか、色々と国の事について聞いてきた。今年の米の出来や民の様子などである。
蔦はわかっている範囲でそれに答えたが――ふと何か違和感を覚えることが数度あり、首をかしげつついくつかの質問にはわからない、と答えておくことにした。
特に、薬売りが「名高い竜の右目」と称した小十郎に関する質問については。


さてしばらく後。その姿にはじめに気付いたのは左衛門だった。
「ちちうえー!」
城から屋敷への帰路の途中。城仕えの者や商人たちを相手にした団子屋があり、そこの店先の席に蔦と左衛門の姿があった。
左衛門に呼ばれたのはもちろんその父にして蔦の夫の片倉小十郎で、彼は思わず顔をそちらに向けた。妻の膝の上でにこにこと笑い手を振る息子に頬を緩ませかけたが、すぐにぐっと顔を引き締めた。妻の向こうに見つけた二つの姿のせいだ。
旅装束の若者が一人。そして、それに同行していると思しき薬の行商人の恰好をしたお調子者といった感じの男がひとり。
「おお……片倉殿!」
「や、片倉の旦那」
髪の長い青年に、橙色の髪の男。
見間違えるはずがない。
「真田と猿飛……まあいつか来るとは思ってたがな」
先日、大雨で川が溢れた時のことだ。見回りに行くと言う政宗に従った先で、この二人組と出会った。その正体は政宗が好敵手と定める甲斐の若虎真田源二郎幸村と、その配下の忍猿飛佐助である。幸村の見聞を広める旅の途中、とかであるらしい。城下の町にもいずれ来ると思ったが、その通りだったらしい。
だが、なぜその二人が蔦と左衛門といるのか。
「おかえりなさいませ」
「ませー!」
左衛門が母の真似をして上機嫌で言うので、小十郎はまずその頭を撫でた。
「家には着いていないが……とりあえず、ただいま」
「あ、やっぱり奥さんだったんだー!」
佐助が明るく声をあげた。それを無視して、小十郎は蔦に声をかける。
「どうしてこんなところにいるんだ。しかも、こんなやつらと」
「あら、お知り合いですか?」
「……まあ、ちょっとした、な。それでお前たちはどうして?」
むぐむぐと幸村が団子を口にしたまま何か言おうとしてくる。それに苦笑して、蔦が代わりに答えた。
「お買いものついでにお散歩に出たら、左衛門が転んでしまって。困っていた所、こちらの方々が薬を塗って、飴をくださったんです」
母の言葉を聞いた左衛門がいくつかもらったらしい飴を小十郎に自慢するように見せてくる。それを眺めて、小十郎は笑いつつもため息をついた。
「甘いものに騙されるのは誰に似たんだか……」
「まあ、失礼な」
左衛門を抱えたまま蔦が顔をしかめて見せる。だがすぐに笑って、佐助とは反対側の自分の隣を示した。ため息をつきつつそこに腰をおろせば、左衛門がちちうえがいい、と言って膝に移ってくる。
「こらこら、あぶねぇぞ」
それを支えつつ座り直させてやれば、蔦の向こうで二人の男がほー! と声をあげた。それを横目で睨め付ける。
「成程、片倉殿が赤子の扱いに慣れておられたのは、すでに御子息がおられたからなのですな!」
団子を飲み込んで言った幸村に小十郎は苦い顔をするばかりだ。
「赤子……?」
蔦が不思議そうに首をかしげかけるが、すぐにまた笑う。
大水が出た時の政宗との見回りの際、この二人のほかに小さな社で捨て子を見つけた話はすでにしてある。そしてその社へ赤子を育ててくれるという村への“田の神様からの贈り物”を二人で届けてきたのはつい先日の事だ。
幸村の言葉に蔦はしばし考えた後、得心がいったような顔をした。
「田の神様のお社の贈物、きちんと村に届いたでしょうか」
「……、神様の御使いがちゃんと知らせたんだ。大丈夫だろ」
店の主人が持ってきた茶を口に運びつつ、小十郎が言った。その言葉に蔦は微笑み、旅人二人は首をかしげた。左衛門だけはそれを意に返さずに、湯飲みを傾ける父を見上げて全く違うことを主張した。
「さえもんもー!」
どうやら、父の真似をして茶を飲んでみたいらしい。小十郎は伸びてくる小さな手から湯飲みを遠ざけながら言い聞かせるように言った。
「だめだ、これは熱いぞ」
すると息子は頬を膨らませた。その顔が先ほど見せた蔦のしかめっ面とよく似ており、小十郎が思わず笑うと、甲斐から来た二人が「おお」と言ったので、ぐっと顔を引き締める。
「はい、左衛門のはこちらですよ」
それを見て苦笑しながら蔦が自分の温くなった茶を息子に渡した。すると左衛門はいっちょまえにそれを傾けた。その所作が小十郎の真似をしているようで、一同は思わず笑ったが本人は満足らしい。
そしてぐっと飲みきった後、
「にがーい!」
と舌を出した。
「おー、でも飲んだんだ! 偉い偉い!」
言って佐助が手を伸ばして左衛門の頭を撫でる。左衛門は嬉しそうにしたが、小十郎は気が気ではない。お忍びの旅に同行している、というのだから何かをするわけではないだろうが忍であるから警戒するに越したことはない。
「ほんっといい子だねー! 転んで泣いてたけど泣きやんだらニコニコだし。あのねー、左衛門、このお兄ちゃんお茶飲めるようになったの結構最近になってからなんだよー」
「さ、佐助!」
「お兄ちゃんが左衛門ぐらいのころはね、ブーッて出してたの。ブーッて」
「そ、そのようなこと言わなくていい!」
恥ずかしい過去を暴露された幸村が立ち上がる。佐助と蔦が楽しそうに笑う。
それに真っ赤になりつつ幸村は再び腰を下ろした。それから話題を変えるかのように言う。
「そ、それにしても片倉殿に嫁御がおいでとは」

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