「いい、名字さんは今までの遅れを取り戻すのよ?じゃあ今日はこれでおしまい」
『ありがとうございました!』
現代語訳でやることになり、まだ台本ありでもいいと言われたことが不幸中の幸いだっただろうか。…いや、今まで原文に時間をかけすぎた分やっぱり周りとの差があった。
「名前、大丈夫か?」
「徳兵衛、じゃなかった、孫市ちゃんだ。大丈夫だよ」
自分で大丈夫だとは言ってみても、ぐったりしてるのはわかってるから無理があったなと苦笑が溢れる。
「せっかくもらったお初の役だもの。絶対にやりきるよ」
「さすが私の女だ、その意気だぞ」
「うん、愛する徳兵衛のためにお初は頑張るわ!」
まるで気分は宝塚…そんな感じなのだけど。
まず私が早く追いつかないといけない。
でももう学校は出なきゃだし、家だと声を出しづらい。
どこかいいところがないかな…そう思いながらしばらく家に着かないようゆっくりと歩けばガコンッと聞き覚えのある音が聴こえた。
「よう、名字!」
デジャヴだ…。
「長曾我部くん!」
そして何て偶然なんだろう。嬉しさやら不思議さやらが混じる。
だけど、私に気付いた長曾我部くんが手を止めてこちらへ向かってくるのを見れば、嬉しさが不思議さを至極簡単に上回る。
「今日も自主練?お疲れ様」
「まあ試合はあんまねえんだが体が鈍りそうでな。名字もさっきまで練習あったんだろ?お疲れさん」
周りを見回してみれば、この前の如く長曾我部くんと私の二人きりの状態。
ここで好きな人と二人きりという事実に単純に喜ぶのが世の中大半の女の子なのだろうけど、今回はちょっぴり世の中の女の子論から外れさせてもらおう。
…自分でもいいことに気付いた。学校でも家でも駄目なら、ここで練習すればいいんだ。
「ねえ、長曾我部くん。普段もここで練習してるの?」
「そうだな、最近はよくいるぜ」
「だいたい何時ぐらいまでしてる?」
「んー、そうだな。疲れた頃に帰るって感じだが、それがどうしたんだ?」
「ここで曽根崎心中練習しようかなって思って。学校はいいけど、家じゃ声出しにくいから」
だから長曾我部くんの練習終わった後にここ使えたらなと思って言ってみたのだけれど。
予想もしなかった答えが返ってきた。
「俺にそんな気遣わなくても大丈夫だぜ。というかなんだったら手伝わせてくれよ、相手いた方が下手でも間合いとかは取れんだろ」
「ほ、本当!?」
「バスケの試合で名字から応援もらったわけだし、舞台頑張って欲しいし。それに夜道は危ねえだろ?家近いから送るからよ」
確かにまた一緒に練習できたらいいななんて願望を抱いてはいた。それは認める。だけど、それにさらに送ってくれるなんて…夢じゃない、夢じゃないってわかってるけど自分の運の良さに目眩がしそうだ。
「その代わり、いいもん見せてくれよ?」
「う、うん!私頑張るから!!」
改めて、二人で並んで台本を開く。
そこで長曾我部くんの匂いとか汗とかに反応しながらも、大事なことを思い出す。
「あ、あのね、今まですごく申し訳ないことしちゃったんだけど…これ、現代語訳の方だった」
「…へ、ぶっ、はははははっ。何だそりゃ。確かに昔の奴のイントネーションとか無理があるとは思ってたが。そうかい、そうかい。
ま、俺は気にしてねえからよ。大丈夫だぜ?」
台本を私の手から取ると、ぱらぱらとページをめくり私が見つけられなかった「現代語訳ですること」と書かれた文章を見つけては納得したようだった。
「でも大丈夫だよな、部長さんよ?」
「うん、絶対にやり遂げてみせるから」
「そりゃいい。楽しみだぜ」
その後更にページをめくり、はじめから通すことになった。
『道理もわからないまま昨日や今日まで他人事と口にしていた心中だけど、明日からは私達二人も噂話の一つになってそこかしこで歌われるわ』
他人事だと思っていた心中を。私にとっては他人事だけど、お初にとっては他人事なんかではない。
目の前にいる相手とともに、逝く。
ずっとずっと恋い慕って、それでも叶わない恋で。恋焦がれて、苦しんで…とうとう一緒になれる。永久に共に。
『嘘偽りないことに今年はあなたが二十五歳の厄年。私も十九歳の厄年』
『二人が思いあったのも厄たたりだなんて、これも深い愛の証だ。これからは永久に共にいられる…やっとだ』
『ええ、やっとあなたの傍にいられる』
見つめ合って、片方の手を握り合って、もう片方の手で頬に触れられれば、恋しさが増す。
現代語訳によって自然と気持ちが入り込めたのだろうか。それとも、長曾我部くんのおかげなんだろうか。
『この世で叶わなかった契を次の世にて―』
『あの世にて…あの世で同じ蓮の上に生まれましょ』
口から出たひとつひとつの台詞に思いが込められていく。そんな感覚。
握り締めた手の力がお互いに強まっていく。少しでも距離が離れるのが厭わしく思えてくる。そして、気付けばいつの間にか話は進み、抱きしめられていた。
この前まで恥ずかしかっただけだったけど。今回は恥ずかいというよりも切ない。
ずっと見つめ合っていたい、目の前にいる愛する人の瞳に自分だけを映して欲しい…ふと思い浮かんだ考えに、少しだけでもお初に近づいたんじゃないんだろうかと錯覚する。
『早く…早く、殺して。お願い…』
『…わかった』
気付けばこの前止まってしまったシーン。だけど、キスシーンと言うのに不思議と体は落ち着いていた。
なんとなくだけど、長曾我部くんの瞳は真剣そのものなんだけど、一瞬徳兵衛から長曾我部くんに戻った気がした。
私の顔を胸にうずめさせると、元の長曾我部くんの声が聴こえた。
「俺さ、本番もしかしたら…徳兵衛役の奴に嫉妬しちまうかもな」
「嫉妬?」
「こんだけ手握って抱きしめたって、他の奴に名字の唇奪われちまうんだなって」
唇をそう言われながら親指でなぞられると体の熱が沸騰した。
練習に付き合ってくれてるからって理由はわかってるけれど。
とうとういっそ長曾我部くんが唇奪ってくれたらいいなんてことを考えてしまい、恥ずかしさともどかしさでどうにかなってしまいそうなその日の放課後練習はしばらくして終わりを告げるのだった。