手巾




「お前の壺なんぞ屑箱になるのがお似合いよ」

ははは。ふふふ。こちらに侮蔑の念を込めた視線を寄せられ屋敷を追い返された玉壺は怒りに震えながら自身と共に放り投げられた壺が安全かどうか確認する。幸いなことに壺はヒビひとつついてはいなかった。
それにしても私の芸術センスを理解できないとは可哀想な輩である。上弦の弐ではないが食って救ってやろうかと、思わずそのような言葉が出そうになった。出さないけど。立ち上がりたいが、笑うかのように秋風が玉壺を擽る。玉壺の心も懐も涼しさを通り越して寒さを覚え始めていた。

揉め事を起こすと面倒なことになるために殺しはしないが、擬態をしてこうして人の世に紛れるのは酷く疲れる。なぜ疲れるかと聞かれたら玉壺の芸術を理解する物がこの明治の世に入ってからポツポツと減ってきているからであった。そう考えると何処か虫の居所が悪い気がしてきて、やっぱり殺してしまおうかと玉壺が起き上がろうとしたときに一つの人間の手がスッと彼の目の前に差し伸べられる。
玉壺は良い人間が居たものだなと感心しながら礼を述べ立ち上がり顔をあげるとそこには──上司が居た。

「いえいえ、困っている人がいれば助けるのが当たり前です」
「ヒョッ……!?」

いや、上司ではない。玉壺の上司は冷徹な鬼であった。いつも理不尽なことをのべ、気に食わないこと、道理に合う合わない関係なく私の首を切り落としてくるような上司であった。それがこんな女体の姿をして、あまつあさえ用もないのに他人に手を差し伸べるはずがないのである。と、すれば他人の空似であるのか。いやでも似すぎてはいやしないか。


「もしや骨董品売りですでいらっしゃいますか?」
「い、いえ……。私は壺売りでございます」

自分の上司似の女は目を輝かせながら、ではでは少し私の家に来ては下さいませんか?素人ながら壺を買いたいのですという女の言葉に玉壺興味本位で家に上がることにした。
気に食わなければ殺してやれば良い。先ほどの男達の血肉よりもこの目の前の女の血肉の方がうまそうである。上司の顔に似ていて食べにくそうではあるが、己の上司を食べているところを想像すると申し訳なさとともに一種の昂りが玉壺の中に芽生えてくる。
──よし、気に入っても気に食わなくてもこの女は家から去るついでに食ってやろう。
玉壺は嬉々として女の後について行くことにした。






制作過程の意図、それに込められた壺に対する執着。伊万里焼、九谷焼そして美濃焼などといった製法の差などを聞かれ、初めはめんどくさいと内心毒づきながら答えて行った玉壺だったが、何かひとつ冗談を零せは花が咲いたようにクスリと笑い、これはどうだとニッチなネタを挟めばその玉壺が期待していた返答がくることに興奮し始めていた。
機嫌が良くなりすぎて玉壺が所持していた二つの壺は早々と女の手に渡っている。玉壺は二重の意味で懐が暖かくなってきていた。


──こんな、こんなに私の壺について関心を示してくれる人間が居るだなんて。しかも上司と同じ顔ときた。正直初めの方は甘言を垂れる上司とか解釈違いの極みが過ぎると思っていたが、こうも褒められるとそう全然悪くもないのだ。むしろ本物の上司にも褒めてもらいたい欲が玉壺の中で強まる。このまま自分の知識をひけからし、褒めてもらいたい。しかしこうも褒められると食べづらい。
そんなことを玉壺が思い始めていたその時、廊下に通じる扉が開いた。誰か来たのであろうか。ご馳走が増えた瞬間だなと玉壺はドアの空いた方を振り返った。

「玲……来客か」
「むざ……月彦さん」

玉壺は驚いた。驚きすぎて擬態が解けそうになるほどに驚いた。扉が開いたら上司が入ってきました。その事実に自身の心の音が耳につき始める。太鼓がリズムを刻むような一定の感覚で何処からかフルコンボだドン!と、誰かが叫んできた気がした。おい今のはなんだ。心が叫びたがっているんだ。いやこれもちがう。玉壺がいくら現実逃避したところで紅梅色の双眸は目の前の玲を捉えながら、時折こちらを睨みつけている。いつも首をスパスパ切られている玉壺であろうと今回ばかりは命の危険を感じ始める、しかし、しかし。それもまた良いのだ。

「どうかなさいましたか?」

急に黙りこくったのを不審に思ったのか、どこか身体が悪いのですか?と聞いてくる女──、玲に玉壺は汗で顔を濡らしながらどこも身体は悪くないと首を振る。差し出されたハンカチで汗を拭くとコッチを見る視線が先ほどよりも鋭くなった。お待ち下さい無惨様、まだ私は壺を売っただけでございます。拭いても拭いても汗が止まらない。本当にどうしてここに無惨様がいらっしゃるのですか。

「……たしか遠方より来られたとお聞きしましたが、今晩泊まっていかれますか?」
「ヒョッ……!?え、いえいえいえ!それはそれは御婦人に申し訳がつきません!」

宿も別にとってあります故に、大丈夫でございますよ!!全力で断る。ここで玲の言葉を甘んじて受け取ってしまうと確実に自分の上司に殺される気がした。それは嬉しいが玉壺も命は惜しい。

「でも、本当に大丈夫ですか?」
「……玲さん、このお方が大丈夫と仰っているのであれば、その言葉を信じてみてはいかがでしょう?」

いつの間にか移動した無惨が玲の肩に手を置き、早く玉壺との会話を切らせようとしている。無惨の本性が出ているのならば問答無用でこの場から玉壺は追い出されているだろう。なぜ無惨が今その本性を出していないのか?それは今後、玉壺と玲との間に縁ができぬようにしているからである。

「で……ではご婦人。わ、私はこれにて失礼いたします」
「まだお聞きしたいことがございましたのに。……帰る道中で気分が優れないようでしたら引き返してくださいね?腕の良いお医者さんは知っておりますので」
「あのハンカチは」
「ハンカチぐらいいいですよ、いくらでもさしあげます」

玉壺は本当に生きた心地がしなかった。私はまだハンカチすらもらったことがないのに、と無惨が蛇の若く鋭く玉壺を睨みつけていたからだ。この無惨は玲が玉壺にハンカチをあげたことが気に食わない。玉壺が玲のハンカチを受け取ったことが気に食わない。顔には出してはいないが無惨は執着の強い男であった。いくら無惨が玲に手料理を振る舞われていようが、自分以外に物をあげるのが許せないし、受け取るのも許せなかった。
もし、玉壺ではなく一般人だったら後で内々に殺されていたであろう。無惨はそういう人であるのだ。とんでもねぇ無惨だ。

汗をいまだに流しながら玉壺は靴もちゃんと履かずに屋敷を後にする。あの洋館にはもう二度と近づくまい、あの女にはもう二度と出会うまいと心に誓いながら。しかし運命とは非情なもので、数年後髪を白く染め上げたその女が無限城に居たのである。オマケに現在上弦の弍と揉め事を起こしているだなんてそんな未来誰が考えられようか。