はじまり




やっぱり死ぬのは今日だったか。月明かりが差し込む明治の夜、玲はそう思いながら呆然と布団の上に座り込む。腕は辛うじて動かせるものの立つことはもう叶わないだろう。玲は動かぬ身体でこの世界の事を振り返った。


──そもそもこの世界に迷い込んだのは何年前だっただろうか、無惨と出会って何年が経ったのであろうか。


身体は動かぬのにやけにすっきりした頭が軽々と玲にその答えを示していく。


結核に罹患したのが2、3年前であるだろうから既に7年ぐらいの付き合いなのだろうか。あと3年有れば10年の付き合いだったのかと思いながら玲は寝室の窓から覗いた。やけに綺麗な月が玲と目を合わせる。全てなにかを知っているような、そんな不気味さを持った月であった。
まぁ新月じゃないだけマシだなと玲は苦しげに咳をする。赤い花弁が布団に広がった。


無惨はまだこない。いや来ないことが当たり前であったはずなのだ。ここ最近、玲の病状が悪化し出してから1日の終わりに毎日玲に顔を出していたものだから玲は勝手に無惨が訪れるものだと思い込んでいた。


昨日も来てくれていたのに今日は来てくれないのか、もしかしたら鬼殺隊に襲われているのかもしれない。だとしたら大丈夫であろうか。この場に無惨が居たものならば自分の心配だけしておけと突っ込まれそうなことを玲は延々と考える、考えるも最終的に行き着くところはやっぱり最期にひと目、一目でいいから無惨に会いたいということだった。



世界から切り離され一瞬にして天涯孤独となった玲の側にいたのは無惨であった。確かに近所付き合いもしていただろうが、それでも玲の中での無惨の存在は大きかった。



玲はそっと1日を終えるかのように目を閉じ無惨、と呟く。鬼は無惨の名前をいうと死んでしまうらしい。そういう呪いがかけられていると、玲はかつて元の世界にいた頃の記憶をなぞった。今じゃ家族の名前さえ思い出せないのに無惨のことだけ覚えているなんてとんだ親不孝ものだなと玲は自嘲する。
親の声より聞いた声という表現をかつて鼻で笑っていた玲であったが、その表現はあながち間違えではないのかもしれない。自分の顔をなくした瞬間に親を思い出す機会をなくしたのだから。


兎にも角にも無惨の名前を呼べば無惨に居場所を把握されるということがとても玲には羨ましく感じた。鬼でさえ死ぬ間際無惨がそばにいるのに、私には来てくれないのかと。


再度玲は無惨、と呟く。しかしなにも起こらなかった。当たり前だ。玲は鬼ではなく人間である。人間が鬼の真似事をしたところとて無惨が気づくわけもない。非情な現実を突きつけられた気がして玲は鼻をツンっとさせる、が泣くことは体力がいることなのだ、こんなところで死期を早める必要もない。


大丈夫、大丈夫。と自身を慰めるように玲は自分の体を抱くも力が入らない。
ゴホり、と咳をすれば十数グラムの命の種が玲から徐々に出て行く。もう死ぬのかと思いながら無惨を待つことを諦めかけていたその時、月が玲に同情をしたのかは定かではないが一つ奇跡を起こした。月は相変わらず玲を見ている。


「大丈夫か」
「無惨…」


琵琶の音とともに無惨が暗闇から現れたのだ。嬉しそうな笑みを玲は浮かべるもそれを許さないかというように病魔は玲に咳をさせる。そうして未だに命を吐き出し続ける玲に無惨はそっと玲の背中に手を添える。その姿は何処か落ち着きがなく、これが鬼の始祖だと紹介されても誰も信じないであろう。
無惨が焦っているのも無理はない、玲を見ていた鳴女から急遽玲の病状が悪化したとの連絡が入ったのだから。そうして急いで来てみれば思い人は死ぬ寸前なのだから無惨の心中も穏やかではなかった。


玲は無惨が来てくれたことに感謝をしたのちに別れの言葉を紡いでいく。あえてよかった、とか、ずっと好きだったとか。これから死にに行くのだ、誰も待ってはいない冥途に持っていく土産なんぞない。やっと思いを遂げられたと穏やかに笑う玲を無惨はひどく美しいと感じた。そんな様子を見て、無惨は、このまま手放してしまうのは惜しいと。そんなことを考えてしまった。
いや、そんなことはずっと前から思っていたのだ。ただ遠慮していただけで。いまこの場で両思いと分かったのだから遠慮することはなにもなくなった。買おうとしていた簪はまた落ち着いた時に選んで買い与えてやればいい。2人を分かつ死を無惨は殺さんとしていた。これは未来永劫死んでも私のものだと。そもそも誰の許可を得てこいつを冥途に連れて行く気なのだと。



無惨は玲の身体を起こし顔を近づける。玲はなされるがままずっとやけに近い無惨の顔を見ていた。好きな人の腕の中で死ねるのならば、こんな幸せなことはなかった。身体は突き刺すような痛みを玲に向けてくるが玲は安らかに目を伏せた。もう死んでも良いと。しかし前述で述べた通りそれを許さない者が、現在進行形で玲の目の前にいた。いや、現在進行ではない、これからも未来永劫無惨は玲の死を許さない。


「玲、貴様が勝手に死ぬことを私は許可をした覚えはないのだが」


そういうと無惨は玲の唇と自身の唇を重ね合わせ、舌を入れる。目を伏せていた玲は突然のことで状況が理解できずに無惨になされるがままにされる。玲の身体はいうことを聞かずとも五感は衰えてはいなかったために、冷たい舌が玲の舌を絡めていく。


「ん…ふ…っぅ…」


無惨は玲の咥内を染め上げていた赤を舌で救い上げ飲み込む。初めて味わう血の味であった。尋常の人でなければ希血特有の血の味でもなかった。もっと味わっていたいと無惨は玲の咥内を犯し尽くそうとしたものの相手は死にかけの本当に死にかけの病人である。今も意識が呆然としている、判断を間違えれば死にかけない。



これはいけない、と無惨は自身に自制をかける。通常であれば鬼になろうと血の味は変わりがないのだ。本当に欲しければ後で玲にねだれば良い。


つい玲の血に夢中になってしまった無惨は一端口を離し、自らの血を含みながら玲に再び口付けをする。先ほどの口づけよりもねちっこい接吻であった。当たり前である、鬼にさせる方法はどうであれ玲が無惨の血を口に含まなければ接吻をする意味がないのだから。相変わらず玲はなされるがままであった。


目覚めぬ姫にキスをする王子のように無惨は玲に口づけをし続けると、玲がゴクリと無惨の血を飲んだ。無惨はそれを確認して玲に接吻するのをやめ顔をあげた。

その途端、玲の身体が熱を上げて急速に無惨の血を受け入れようとしていた。そんな急激な身体の体温に玲はついて行けずに苦しげにもがき、そして無惨に身体を預けるかのように力なく伏せる。無惨は一瞬玲を殺してしまったか、と、危ぶんだもののすぅすぅと寝息を立てる玲にそっと胸を撫で下ろした。


佐原玲が生きている、というこの事実は無惨にとってとても喜ばしいことであった。
できればこうしてはやりたくなかったと、思っていたが、無惨は好いた女をみすみす殺すようなほど愚かではなかった。私が玲から太陽を奪ったのならば、代わりのものを私が玲に与えてやれば良い。その代わりこれから先、玲は私のものである。とんだジャイアニズムを披露させる無惨であるが、玲に触れる手は震えていた。自分が触れることで壊れてしまわないかと玲をそっと抱き上げる。病気の巣となってしまっていた身体はやけに軽かった。
力なく垂れる玲の手が地獄に手を差し伸べているようだった。何処にも拐われてくれるな、これは私のものだと思いながら玲の手を玲の身体の上に乗っけてやる。


これは急ぎ食べ物を与えてやらねばと無惨は月に背を向け暗闇に向かって歩き出した。私の血肉で満たしてやらんこともないな、と、無惨はそう思いながら玲をギュッと抱え直す。

どこか急ぐような音を出す琵琶の音とともに2人の姿は闇へと消えていく。行方を知るのは全てを見ていた月のみであろうが、月は太陽には教えてやらないというかのように雲の中で目を伏せた。