茹だるような暑さに見舞われた夏のことである。明治時代と言えども夏の暑さは計り知れず、梅雨に花開いた紫陽花は少し花の縁を枯らしながらも粛々と一生懸命にこの夏を越えようとしていた。

さて、夏であろうがなかろうが外の温度にも季節の移り変わりにも左右されない無限城は今夏一匹の蝉が迷い込んでいるようであった。

その蝉はいつ入り込んだかはわからない、城の主人の鳴女でさえ首を振るほどである。知らずのうちに迷い込んだ一匹の蝉は雌であるのに今もけたたましく鳴きわめいていた。曰く、鬼殺隊を出せだとか。曰く黒死牟を呼んでこいだとか。鳴女がコンタクトを取ろうにも何かけたたましく訳の分からぬことを言う始末。

無惨もこの蝉の存在を知ってか知らずか知らないが何も言ってはこなかった。無限城に上弦の鬼を招集してみればキィキィと色めきたって集中できやしない。
前言撤回である。無惨はこの蝉──女の存在を黙認している。普段であるならば鼻で笑いながらつまみ出せやら宣うあの無惨が。
無惨の行動に興味があるのかないのか定かでは無い玲は鳴女の隣で鳴女の演奏を見ながらほぅ……っとため息をついた。いつ聞いても鳴女の演奏は素晴らしいのである。素人なので何も語れやしないが。楽器が弾けぬ玲からするともうそれはそれは楽器が弾けるだけでも凄いことである。一曲引き終えた鳴女に拍手を送る玲に満更でもない顔をしながらありがとうございますと言う鳴女。無限城という名の箱庭のしあわせなひと時である。
──あの女の存在がなければの話ではあるが。

女は玲のことを無惨の妹だと思い込んでいるようで、いつも玲と顔を合わせるたびに自分の使いっ走りのようなぞんざいな扱いをした。もちろん無惨の実の妹でもなんでもない玲は女の言うことを聞いたり聞かなかったりしていたが。
だって玲は女に興味がなかった。実際毎回女が吐く名前も玲は覚えてすらなかったのである。玲が興味があるのはあいも変わらず歴史のことや無惨のことである。ちなみに鳴女もあの女の名前は覚えてはいない。

なぜあの女が不機嫌なのかは定かではないが、ろくなことではない。ため息をつきながら玲は渋々女の元にラムネを二本提げながら向かった。

どうせ喉が渇いているだとかそんなものなのだろう。一本余分にあるのは自分で飲むためである、歪な手作りの瓶にまあるいビードロがカラカラと音を立て、ゴクリと飲めばしゅわしゅわとしたラムネが喉を潤す。クーラーも無く、涼む方法が数少ない中でのとっておきの涼み方である。
童磨がいるときは氷を出してもらったりするのだが、最近は本職の方が忙しいのか分からないが滅多に無限城に顔を出さなくなってしまった。


「……ラムネ、飲みますか?」
「ラムネなんていらないわよ!」


マイフレンドなんてふざけたことをのたまいながらラムネをスッと差し出すと、手を払われてしまった。まってちょっと悲しい。ラムネがいらないとなると何が望みなのだろうか。あまり困ってはいないが困り顔をしてみる。
一応無惨のお客様だからぞんざいに扱ってはいけないだろうし、かといってよくわからない用事で呼ばれるのも叶わない。そういえば無惨に擬態の練習をしたり、演技を上手くなれとか言われているのを玲は思い出す。どうしようかなどと玲が考えていると女が目くじらを立ててくきた。やだ目の前の存在忘れてた。


「あんた無惨の妹じゃ無いみたいわね」
「妹だなんて一言もいった覚えはございませんが」


そう答えると目の前の女はキィキィと何か顔を真っ赤にさせながら玲に突っかかってくる。普段は穏やかな対応をとる玲であったが、流石に一週間も続けば心中穏やかではない。

あと何気に無惨を取られた気がするのだ。無惨の妹もいいと思うがやはり今、ここに、無惨のとなりにいるのは玲なのである。逆ハーやらあんたのせいやら訳のわからない単語が玲に降り注ぐ。玲は望んでトリップしてきたわけでもないし、夢女子でもなかった。

いつのまにか世界が混じり合い、そして元いた世界にはじき出されてしまったただの人間である。この世界に来て鬼になるまでの間病弱になってしまったし、本当に女のトリップ特典とか言う物は無惨と顔が同じぐらいであろうか。なんにせよ思い当たる節といえばそれくらいであった。話を半分に不真面目に聞いていたのがバレたのであろうか、女はさらに波乱狂になりながら口を開き続ける。


「それにしたって何よ!この世界に来てからすでに一週間!!鬼殺隊にも会ってないし、ここにいるのは目を隠した女と無惨に似た顔の女だけ!黒死牟も猗窩座も童磨も普通私に会いに来てくれるんじゃ無いの!?」
「……」
「こんな場所ならすぐに出て行きたいわ!!今すぐ鬼殺隊の元に保護されて柱になるんだから!」


鬼殺隊の方がよっぽどマシよ!人殺し!などと一週間衣食住を提供してくれた無惨にも失礼では無いだろうか、自身が貶されるよりも玲は無惨が貶される方が耐え難かった。
あまりに酷い言動が続くので咎めようとしたその時、地を這うような声が無限城に静かに響き渡る。


「──ほぅ?鬼狩りの元に行きたいのだな」
「無惨様!」


女が無惨の元に駆け寄ろうとするも無惨は女を無視し、玲の元に駆け寄り玲に接吻を落とす。
私がいない間寂しくはなかっただろうか、そもそも何をしていたのか私に教えてはくれないだろうかなどと言いながら腰に手を回し始める。一日、二日空けていただけなのにここまで甘えられたのは初めてのことなのでくすぐったいような嬉しいようなの気持ちに襲われるもののここは一応二人の部屋ではないのだ。
ちょっとまって人が見ているからと玲が言うと無惨はどうでも良さそうな顔をしながら女に向き直った。

「無惨様!!お会いしたかったです!」

玲を指差しながら、この女使えません。私の言うことを全く聞かないし……と言いかけた女の顔が恐怖で染められていく。
無限城に住まう鬼たちもその恐怖で蜘蛛の子を散らすように去って行った。
玲からは無惨の後ろ姿しか見えないが血管が浮き出ているのが見えてしまった。私以上に怒っていないだろうか、無惨。

「玲はお前のために用意した女ではない」
「ヒッ……!」

助けを求めるかのようにこちらを眺める女に玲は黙って首を振る。たかが一週間されど一週間。小馬鹿にしてきた存在を救ってやるほど玲も優しくはなかった、まして相手は蜘蛛を一匹救ったカンダタのような尊く愚かな存在でもないのだ。

それ以前に玲は仏でもない、仏になる前に無惨に鬼にされた元人間であった。玲が仏になる日はもう来ないのである。本地垂迹説のように神が仏になる事が無いように、反本地垂迹のように仏が神になることもない。

玲は玲である。それは鬼になろうが人になろうがそれは変わりのないことである。しかし、玲は玲のアイデンティティである顔を奪われてしまっているのはこの際口を閉じるしかあるまい。

兎にも角にも玲は女を見放した。玲は女の生殺与奪の権を無惨に握らせたのである。無惨は玲にすぐに戻ると言いながら女を連れてどこかへ去ってしまった。無惨……とポツり玲が呟くとすぐ後ろに無惨が立っていた。早すぎるうえに無惨のわりには汚い殺したのであろうか、服に血が付着していた。さして食欲をそそる血の匂いでもない。勿論玲は人間を食べないが。

無惨にお帰り、と述べると無惨は先ほどまでシワを寄せていた眉間をふっと緩めて玲を再び抱きしめる。そういえば一つ聞きたいことが無惨にあったのだ。

「無惨」
「なんだ」

なんであの子を置いていたの?その問いかけに無惨は罰が悪そうな顔をしながら沈黙をつらぬく。それは自分に少し非があると自覚しながらも認めたくない時にする無惨の表情であった。

その顔がひどく愛おしく感じた玲は背伸びをし、無惨の頬を触りながら無惨を愛で始める。怒りはしないしするつもりもない。どうせ無惨は私のためを思ってやってくれていたのだろうから。

ふにふにと暫く無惨の頬を触っていると沈黙が辛くなったのか、頬がくすぐったくなったのか定かではないが無惨が沈黙を破った。


「玲の……玲の話し相手にちょうど良いかと思った」


ほらやっぱり。当たっていた自分と自分を思いやってくれていた無惨に嬉しくなり思わず破顔する玲に無惨はさらに力を込める。夏の音が消え去ろうとも夏はまだ沢山残っているのである。流石に少しあつくなってきた玲が無惨にラムネあるよと伝えれば頂こうと返事がやってきた。鳴女さんも誘って三人で飲もうよと誘うと少し遅れて無惨が玲の肩に自身の顎を乗っけた。わかりやすいなぁ。


「そういえばあの女性はどうなったの?」
「……殺そうと思ったら突然爆発四散した」


えっ怖。