分岐 | ナノ

※不快な描写あり


「1つ、話をしてやろう」

1人で百物語をしていた紬に、目の前に座り紬の怪談話を聞いていた男が唐突に口を開いた。そもそもこの目の前の男はいつから居たのであろうか。紬は男の顔にどこか見覚えがあるようでない錯覚を覚えた。蝋燭の炎を目に映したような色を持った男の目を見ると本当に妖怪の類ではないかと疑ってしまいそうになる。

「まぁ急くな、面白い話だ」

念の為に外に待機させておいた人を呼ぼうとし手立ち上がった紬に男は再び席に座るように命じた。くくく。とどこか楽しげに笑う男の腹の底がしれないがまぁ聞いてやっても良いだろうと紬は座り直し男の顔をじっと見つめた。
男は紬のその様子に気を良くしたのかかいていた胡座をやめ片膝を立て、ゆっくりと、さも世間話をするかのように話だした。


「私が今から話す内容はおよそ十数年前のある夜のことだ」




ある時私がとある村に訪れた時のことだ。東にあったのか西にあったのかさえ思い出せないぐらいにどこにでもある普通の村であったことは覚えている。

暇をつぶし、訳もなく物見遊山をしていると何やら崖の下で蠢く影があった。狼か、はたまた熊か。村の近くにそのような畜生がいていいはずもないし、私自身その場所にさてもあるべきならなかったので、ついぞ好奇心に駆られ下に降りてみるとそこに居たのは身罷りかけた女が1人いた。

頭から血を流していた女は私に気がつくと声にならない、壊れたレコードのように何度も何度も同じことを言い続けた。それはよにない程の醜悪さであり、あれを憐れむべきものなのだろうと決めつけた私は面白がって女に声をかけた。「哀れだな」と。初めは確か哀れだなと声をかけた気もするし、面白いなと声をかけた記憶もある。まぁ、なんだ。崖から落ちた女なんぞたまに見るがあそこまで中途半端に死んで中途半端に生きた女は初めて見た故にな……。
それで私に声をかけられた女は先程から言っていたわけも分からない言葉を度々繰り返す。「あー」やら「うー」やらで始まったり「いた、いた、いた」やら、「死に、死に死にた、死にた、な」やら最期まで言葉にならない言葉を発してこちらをじぃっと見ていた。
潰れた声で微かな生を吐き出すようにこちらを見つめていた事は覚えている。

私が「死にたいのか」と問えば首を横に振り、私が「生きたいのか」と問えば首を縦に小刻みに「んーうんーあーあー!」と言いながら振る。生きたいと願う人間は助けねばならないのが仏やら神やらの本分と聞いた私は面白半分にその女を活かしてやることにした。しかし神も仏も金を取るだろう。寺や神社の賽銭箱にはいつも小金がたんまり腹に詰められて生きているもんだ。何も持っていない女からさらに何か貰ってやろうと思った私はこう口を開いた。「お前の稚児と引き換えに助けてやろう」と。

女も女で恐らくもう耳もあまり聞こえていなかったのかどうなのかは定かではないが、私の提案に大きく首を女が振ったので私は助けてやることにした。私の血を数滴落としてやると女はそれに縋るように舐め上げるとと、これまたその場で「きひっ、きぃ……ひやっ、きゃっ!はっ!はっ!はっ!」大きな奇声を上げながら突然立ち上がり姿を消し、先程まであった村にめがけて走り出して去っていってしまった。いやまったく奇っ怪なことであった。

それからしばらくして私がこれまた適当に物見遊山をしていると、かつての女が闇に紛れて生活している所を見かけたのだ。片手には人間の子供を持っていた。生まれたことは女を通じて知ってはいたが、目に写ってはいなかったために生きているとは思わなんだ。女と目があい、私が軽く笑みを浮かべ会釈してやると顔を青くさせてそそくさと急いで逃げていった。どこへ逃げても無駄なのに人間とは誠に愚かな存在であると私が再度思い知った時のことでもある。

すぐあとだ、女の手から子供が消え、女が太陽に焼かれ死んでいったのは。



「どうやら女は子供を寺に預け、私から逃そうとしていたのだ」

火の熱によって溶けた蝋がするりと燭台の皿に溜まっていく。あんなにあった蝋はすっかり短くなっていた。

「その行為に女に母性とやらは、愛とやらはあったのか。それは女にだけしか分からない」

男が紬から目を離し、蝋燭を見ながら話す。紬は男が一体誰をみて話をしているのか分からなかった。

「分からないという顔をしているな。世の中なんぞ所詮はそのようなもので溢れているではないか。」

「例えば。誰が私のことを知れようか、だれも私のことを知ることは出来ない。私が私である限り。またあの自死を選んだ女然りだ」


男が瞬きをすることも無くじっと紬を見る。まるで知らぬ過去の清算をされている気がする。紬は男と目を合わせぬようにドアの方に目を向ける。

「あの女もまた子供の幸せを願っていたらしいが、子供の幸せなんぞその子供にしかわからん」

「しかし私は君を知っている、松宮紬。君が今まで経験してきたことも君の心も全て私は知っている。」

蝋燭の火が段々と弱くなってくる。しかしそれに反して紬の中に蠢く不快感は増していく。逃げなければ。人を呼ばなければならない。

「しかし人間共は君のことは誰も知らない、だれも分からない。これからも誰が君のことを知れようか、今から君は私、この鬼舞辻無惨のものになるのに」

無惨は顔に喜色を浮かべながら紬に見入る。今まで手に入らなかったものがやっと手に入る幼子のような様子であった。男から逃げ出すには今しかないだろうと紬は襖に飛びつきあけた。

「その胎にこれから宿す稚児も私のものだ」

無惨がするりと紬に手を伸ばし、蝋燭の火を消すと同時に紬は絶句した。一面が赤く染め上げていたのだ。誰がこの場面を作り上げたのかは考える必要もない。紬は散った命を後ろに走り出す。無惨に捕まり孕まされることも良しとしない。ただただ今は夜明けまで逃げ続けることを目標として走り続けるしかないのだ。力のあった鬼殺隊士すらも殺されている。鬼殺隊を辞めた紬は既に非力な刀も持たぬ一般人でしかない。

森の中を走り続ける。どうにかして逃げ切らなければならない。どうしても。無我夢中に何も考えずに走り続けていた紬は足を滑らせゴロゴロと山の中を転がり落ちる。ある時は木にぶつかり、ある時は石で皮膚を切る。そうして転がり終えた時には頭から血を流し、足が逆方向に曲がり走ることが叶わなくなっていた。自身が逃げきれないことを知り、絶望に暮れるも、ドクトクと流れている止むことの知らない血に少し安堵した。無惨が来るまでに死ねたら逃げ切ったことになるのではと。しかし現実はそう甘くもなかった。


「ようやっとお前を手に入れることが出来た」


ゆっくりと下駄をカラン、コロンと鳴らしながら無惨は紬に近づいていく。血を流してしまったがために見つかったのだ。

無惨は紬の身体をうっとりとした赴きで撫であげると紬の身体を持ち上げどこか闇の方へ歩いていく。

夜明けも遠く、今ここにあるのは闇から出てきた鬼と非力な人間だけであった。いっそ死ぬことが出来たのなら……。そんな気持ちを抱きながら紬は意識を手放した。