分岐 | ナノ

風が厳しく吹き荒れる秋の季節。風がここを開けろと言わんばかりに窓に自身の身体を打ち付けており、窓は決して破られまいとしながらも怖がるかのようにガラスを震わせていた。そのようなとある屋敷の一室で私は俊國くんという男の子に勉強を教えていた。なんでも彼は肌が敏感で日中外に出ることができないらしく、暇を持て余しお隣さんでもある私が教えてくれないかと白羽の矢が立ったのだ。

とは言っても俊國くんは私が与えた課題を難なくこなしてしまう。椅子にちょこんと座り机に向き合う俊國くん。やはり子供というのは愛おしい。弟のようにかわいがってはいるものの私の弟よりも聡明で賢い俊國くんに教えることはないのではないかと密に思っているのは内緒のことである。

「紬さん、次いつ会えますか?」
「いつものように2.3日後かなぁ……?」

今日も授業が終わり、帰り際にこのようなことを俊國くんから聞かれた。いつもは見せないそのような彼の姿に少し笑みがこぼれる。もしかしたら良好な関係を築けているのかもしれない。詳しい話はお母様に聞いてみるといいよ。そう私が俊國くんに告げると俊國くんはわかりましたとどこか考えるような素振りをし、紅梅色の瞳を伏せる。とても子供とは考えられないその振る舞い。この様子などを見るにやっぱりな私の弟とは似ても似つかない、弟にも俊國くんの爪の垢を飲ませてやりたい。

そう思いながら私は椅子から立ち上がり、俊國くんに今日のご褒美としてキャラメルと渡した。ありがとうございます。俊國君は行儀よく礼をし、椅子から立ち上がる。共に部屋を出て階段を降り、軋み悲鳴を上げる廊下を歩き、とあるドアの前にたどり着く。

私がノックし失礼しますと部屋に入ると、そこにはこの屋敷の主でもある俊國くんのお母様がソファに腰を掛けていた。彼女は私たちを視界に入れるや否や二人ともお疲れ様と笑いかけいつものように紅茶を出した。私は婦人と今日の勉強の成果を報告しながら雑談に花を咲かせる。この前どこかへ行ったやら俊國くんが何をしたやら。果てには昨今の経済の話にまで及び、婦人がここ最近経営が危ないということをこぼした。しかしそのあとすぐにパッと顔を明るくさせたのでおそらくジョークなのだろう。おそらく夫人は先の戦争で一儲けする腹積もりなのだろう、世間では清やら露西亜やらわからない国々が戦争を行っているらしいが私には関係ないことである。

「貴方が俊國の面倒を見てくれるようになってから助かっているわ。この子の気晴らしにもなると思うし、なにより貴方の気晴らしになると良いのだけれど……」
「……」
「あらやだ、ごめんなさい。そんな顔をさせたいわけじゃなかったのよ」

気にしないで頂戴、という彼女に気にしてませんよ私は笑いながら返す。お茶も冷えてきた。私はお茶を飲み干し、俊國くん含めて挨拶をし家を後にする。このまま家に帰ってもいいが、私は墓地へと足を運ぶ。代々の墓は山奥の辺鄙な場所に存在しているが、ここに眠っているのは誰でもない私の弟である。風邪をこじらせて死んでしまった私の弟。弟が死んでから2年という歳月が経過してしまっているが、私の中の弟は未だに色あせないまま存在している。今もこうして墓の下に眠っているだなんて思えない。いつもなにかあると私は近況報告を含めて弟の元へ訪れている。

月命日やお盆の時などにしか墓参りに来ない母親と父親たちにため息をつき、ここ最近あったことをひとしきりに話し終えた私はまた明日から頑張ろうと墓地を後にした。





あの日から数日が経過し、今日もまた俊國くんに勉強を教える日である。相変わらず外は荒れ模様である。風が依然と窓を叩き続けている。空もどうやら芳しくなく、雨が降りそうだ。私はお隣なので家から出たくないという問答が寸前まで出来るのは良いことだと俊國くんの家のブザーを鳴らしいつものように挨拶をする。挨拶をしたが依然としてドアが開かれることはなかった。留守であろうか、私は再度ブザーを鳴らす。また反応はなし。何故だろうと思いもう一度とブザーを鳴らそうとしたその時ドアが開くとそこには憔悴しきったご婦人の姿があった。どうしたのだろうか、心配する私に疲れ切った彼女が口を開いた。

「あら……紬ちゃんじゃない」
「こんにちは、この前ぶりですね」

また今日も俊國くんに勉強を教えに来ました!そう元気よく私が言うとご婦人は困ったような顔をする。どうしてそのような顔をするのだろうかと私が首をかしげると、彼女は信じられないことを口にした。

「……俊國くん?いやね、あなたの弟さんなら来ていないわよ」

疲れすぎやしていないか。そう思うも、ご婦人は嘘を言っているようにも思えなかったので私はとりあえず話を合わせ家に帰ることにした。家に帰ると俊國くんは居ない。いや、いるわけないのだが。俊國くんが弟だなんてそんなわけないのに。

父親にそのことを言うと父親も笑いながら夫人も疲れているのだろうと言いながら仕事へと出かけていった。また何かあれば夫人から連絡を寄越してくるだろうと思い私は母親と雑談に興じる。父親に対する愚痴、お向かいさんが子供産んだやら様々なことを話すうちに私は以前夏に海水浴に家族で出かけたことを思い出した。弟が風邪をこじらせて死んでしまう直前で訪れたあの海にまた……。そう私が言うと母親は怪訝な顔をする。また何かやってしまったのだろうかと私が首をかしげる。

「海に行ったのは私とお父さんと紬よ。弟は身体が弱くて行けなかったじゃない」
「えっ……?」

いやね、忘れちゃったの?貴方も疲れてるじゃないの。そう笑う母親に弟は身体は弱くなかったけどなぁと思うも、私の知らないところで何かがあったかもしれないし、何より言い争うためにこのような会話をしているわけではないと私は話を切り上げて部屋に戻る。
そのあと帰ってきた父親にも海水浴の話をすると今度は弟も一緒に行ったという。ここまで記憶が違ってくると気味が悪いものがある。何か大切な物が蝕まれていくような気持ちに苛まれるもそれに気づけないである。何かがおかしいが、何がおかしいかはわからない。その不安は数日続き、居ても立っても居られなくなった私は弟に会いにまた墓参りに来ていた。

ねぇ、どう思う?と墓前に問いかけても弟は返事すらしない。当たり前かと思いながらひとしきり喋りたいことを喋っていく。せめて弟が生きていれば本人から確認が取れるのになぁと思い、家に帰ると父親と俊國くんが一緒にご飯を食べていた。母親はその様子を見ても何も言うことはなく二人に食事を出していた。一体何が何なのかわからないと私がその場に立ち尽くしていると俊國くんがいつものように紅梅色の双眸を私に向けて、おかえりなさい姉上と言ってのけた。私は手に汗を感じ、唾を飲み込む。ただいまと言おうとしたが、違う、俊國くんは弟ではない。なんの冗談のつもりだという言葉を口にすると、ご飯を食べる手を止めて父親は信じられないものを見るかのようにこちらを向いた。

「何って俊國はお前の弟じゃないのか、忘れたのか?」





俊國くんは弟ではないと、父親と言い争うも決着がつくことはなかった。そして居てもたってもいられずに私は弟の墓を目指して夜の道を走る。秋風が吹き荒れ私を襲う。そんな中でも私はひたすらに夜道を走り続けた。私の言っていることはおかしなものではないと安心するために、俊國くんの異常性を主張するために。

しかし、私は弟の墓場があった場所を見て膝から崩れ落ちた。先ほどまであった弟の墓花が消えていたのだ。先ほどまであったのに、私が家に帰る前までは確かにあったはずなのに。なぜ、どうしてなくなっているのか。探せばどこかにまだあるはずだと考え抜かしたはずの腰を拾い上げようとする。


「姉上……?」


そう呼ばれてはた、と手を止める。何故私は墓地に来ているのだろう、弟は生きていたんだった。弟の声だと振り返るとそこに居たのは俊國であった。違う弟ではない。弟は死んだのだ。そのような問答を繰り広げている私を心配するかのように俊國はこちらに寄ってくる。やだ、来ないでと後ずさる私に俊國は悲しそうな顔をしながら疲れているのですね……お家に帰りましょうと右手を差し出してきた。

違うの。私の弟は姉上だなんて声はかけないの、私の弟は左利きでそれをいつも気にしていた。違うのに、違うのに、違うのに。私の記憶は段々とソレが正しいと思わざる得なくなってくる。いつも笑顔が絶えなかった弟は寡黙な少年であったのかもしれない。お姉ちゃんではなく姉上と言っていたのかもしれない。

思い出の中の弟よ、忘れてしまってごめんなさい。あなたが居た場所を守ってやれなくてごめんなさい。もっと激しく言い返せばよかった。無力な私を許しておくれ、ごめんなさい。もう名前も思い出せない弟に対してしきりに謝り続ける。ポロポロと泣く私を俊國は私の背中に手を添え、泣かないでください姉上と慰めてくる。

紅梅色の双眸がこちらを覗く。血のように恐ろしい真っ赤な赤い目。私の弟の優しい目。姉上、一緒に帰りましょう?私は再度差し出された俊國の手を取る。俊國は良い子だと年齢にそぐわぬ声色で私の耳元を撫で上げた。弟が私に笑いかける。私はそんな弟に寒くなってきたねと、笑いかけながら手を握り返し帰路についた。風は依然と吹き荒れたままである。