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綺麗で真っ青な海。空よりも暗いあおいろを有したこの海は空よりも遠く、果てしないものなのだろう。きっと海の向こうに超えた先にあるものは自由であり、海は貴いすべてを受け入れてくれるのだろう。

山のように青々と茂る自然を前に叫んで返ってくるやまびこは海にはなく、ここで私が叫んでもきっと返ってくるのは波の音や海鳥の鳴く声である。
海の色が焼かれゆく夕焼けを前にしても私の海が好きという気持ちは一等変わりはしない。

青色が橙色に、桃色などに混じり合い雲を輝かせる夕方。これから光もない夜に向かっていくというのにこの時間の空は一番輝きを放っている。キラキラと光るあの雲はもし食べれるのであればどんな味がするのだろうか。あの空を切り取って布を作り布団をこさえることができたのならばどれだけ良いのだろうか。波は私の気持ちを汲むわけでもなく唯々不規則にそして規則的に海を駆け輝き消えていく。

遠くを見るとぴょこぴょこと跳ねるようなその仕草に思わず兎が跳んでいるように見えた。野を駆ける兎は海を渡れるし、月では餅を搗くこともできることが酷く羨ましい。兎の鳴き声の代わりに遠くで山から村へ帰ってきた子供たちがはしゃぐ声が聞こえてきた。もうこんな時間か、帰りたくはないけれど帰らなければならない。今日は会えるかと思ったのに……。帰ろうかと決めかねていた時私の身体を覆うかのように大きな影が私を隠した。


「こんばんは」


風邪をひいてしまいますよ、そう私に優しく羽織をかけてくださったのは物腰が柔らかい男であった。波打つ海のような髪の毛持った男の人。私はこの人の名前を知らない。初めて会った時に名前を聞きそびれてしまったからだ、でもこの人も私の名前は知らないのである。知っているけれど知らない人。私がいつもここに居れば彼はどこからともなく現れて私にこうして羽織をかけてくれるのだ。お天道様が居る間には会えない人なのでひっそりと私はこの人はお月様ではないかと思っている。私はこの彼と過ごす時間がとても好きだった、大好きな海がもたらしてくれた奇跡なのかもしれない。少し重ったるい潮風が私の顔をくすぐり、遠くで海鳥が鳴く声が聞こえた。

久しぶりに出会った彼とたわいもない世間話をする。目の前の男の人は私の言葉を唯々黙って聞いてくれて、時には彼から外の、此処ではないところの話をしてくれる。そうしてたわいもない話をして時間を贅沢に使うこのひと時も私にとってかけがえのない幸せであった。帰りたくないと零す私に彼は真っ赤な目に弧を描きながら家まで送り届けてくれるのだ。


「また今度お会いしましょう」


私の家が近くなり別れ際。彼はいつも私の家に入ろうとはしない。彼は必ずこの場所で足を止めて私に対して別れを告げてくる。またこんどおあいしましょう。その言葉が嬉しくて私はいつもさみしさ混じりに頷いてしまいのだ。少し彼の袖を掴めば彼の赤い目を今度は困ったという感情を浮かべていた。


「ごめんなさい……」


彼を困らせてしまった、そう思い咄嗟に謝罪を述べた私に彼は黙って私の頭を撫でてくれた。なぜこんなにも私なんかに優しくしてくれるのだろうか、いまが夜で良かったと思いながら私はかけられていた羽織を彼に返し、お礼を言いながら家に入る。扉はぎこちない音を立てていた。





「お前の結婚が決まった」


家に入るなり父親はこんな時間まで外に出ていた私に対して心配の声を上げるわけではなく、このようなことを言ってきた。咄嗟に言われた予想外の言葉に立ち尽くしていると父はお前も良い年なんだ、この隣村の豪農の息子がお前を気に入ってくれた。お前のためを思ってのことだと私のことを想ってもいない言葉を私に吐きかけてくる。しまいには明日こちらに来るから今日はもう寝なさいと言われ腕を掴まれた。私はその腕を咄嗟に振り払いいやよと震え、声を上げる。

父親に対して反抗することの意味を知っているなかでの行為であった。私の予想通りに父は私を怒鳴りつけ手首を強くつかみ上げた。痛みと怒号で臆するも私の頭の中には赤い目の優しい彼がなぜか頭の中に浮かんでいた。明日隣村に連れ去られるのなんて嫌だと振り払い、咄嗟に、視界に入った酒瓶を私は手に取った。





息が苦しい。走れど走れど見える景色は田舎独特の殺風景な景色である。太陽は眠りにつき、空はつられて闇にまみれた。遠くで私の名前を発するのは村の人間たちであろう。

父を酒瓶で殴ったあの時すべて世界が遅くなるように感じた。私に酒瓶で頭を打たれて倒れる父親。倒れた父の頭から血が流れだし、父親はうわごとを言いながら痙攣していた。幼いこと私に綺麗な色に染まった刀を見せてくれた優しい父親を私は鈍い色をした酒の瓶で殴り殺してしまったのだ。

あの時私が抵抗してしまったがために父が死んでしまった、涙がこぼれ視界が歪む。空を見上げるとツンと鼻の奥が痛くなり草花の匂いが花に着く。ごめんなさい。ごめんなさい。
気が付くといつものあの場所へと来ていた、自由を現してくれていたあの海へと。海は私が人を殺したのにも関わらずにいつもと変わらず規則通りに波を作り出していた。波の音が相も変わらず鳴り響くこの海に生き物の息吹は聞こえてはこなかった。眼前にたたずむこの黒で塗りつぶされた海はまるで私を閉じ込めるための壁のようだった。これからどうしようとその場に座り込むと肩に羽織がかけられた。

びくりと肩を上げる私に対して落ち着いてくださいとかける声に心臓が早まり始める。今会いたくはなかったと思い振り返るとそこに居たのはいつもの彼であった。彼はいつも通りに優しく赤い目を蓄えながら私の背中を撫でる。その優しさを、施しを受けるほどの大層な人間ではない私は彼から咄嗟に離れてしまった。


「人を殺してしまったことに罪悪感を抱いたのですか」
「なぜそれを」


なぜあなたがそれを知っているのだろうか。その言葉を私が紡ぐ前に彼は私に再び近づきながら私ならそれをなかったことにできるという言葉を紡ぎ出す。まるでその言葉は天の助けと言わんばかりの魅力的な言葉であった。

しかし、彼がどうしようと肉親を殺すことは極刑に当たることである。尊属殺人ほどこの世で重いものはない。それにそもそも人を殺すことだって悪いことなのだ。

今こうして考える私に対して彼はニコリと笑いかける。その様子がさも人間離れして気味が悪かった、私は人を殺したのにこの人はさもそれが当然であると人は死んでもよいと考えている。まるで人間ではないといったようなそんなことを想起させる振る舞いであった。そもそも月明かりで照らされていようとも私のすすり泣く声もこの海で掻き消されてしまっているはずであるし、この顔は見えることはないはずである。甘い言葉がどうにも私を地獄に落とそうとしている言葉にしか聞こえなかった。いまここで彼の手を取ってしまっては自由との永遠の別れを見る気がしてならなかった。かと言って私はもう生きることはかなわないのであろう。村人たちの前にすごすごと帰ってつかまりその後うける辱めを考える。

私が悩んでいる間にもいまこうして海は波を立てている。それも自由に……。自由。海はこのやりとりを聞いているのにも関わらず我関せずとただただ自由に音を奏でていた。優しい潮風が私の頬をなでた。その風は私の鬱蒼とした気持ちを払うかのような風であった、海の中にも都はあるのかもしれない。海自体が都なのかもしれない、外に出れる唯一の手段は……。私は彼が差し伸べる手に背を向けて、海に飛び込んだ。空と溶け込み、壁のように私の眼前にそびえたっていた海は私までも受け入れるかのようにどぶん、という音を立てた。波とは違う異質な音だがそれらは波に掻き消された。半狂乱の末に飛び込んだ女だと思われたのだろう、罪を犯した人間の出来損ない。

飛び込む寸前の彼の驚く顔を胸に抱きながら私は海と溶けていった。