分岐 | ナノ

そらに浮かぶは丸い月。春の陽気に当てられたのか太陽もすっかり暖かさすら連れ去って地平線の彼方に消えていったそんな夜。男は夜の道を歩いていた。歓談の声に目を細めるもそれは自分には関係のない話。

男の家族は果たして家族と呼べるものであったのか。それは男にとってもわからない。……が、荼毘をする直前に産声を上げた赤ん坊をそのまま燃やしてしまわなかったので常識はあったのかもしれない。まぁ床に伏していた際に散々あのとき燃やしてしまえばよかったと言われた気がしなくもないが、そんな家族は一千年も前に土の中。燃やされず食われた気分はどうだと高らかに声を上げたのも千年も前なのかと男にしては珍しく物思いに耽っていた。

──らしくもない。そんな六文字の言葉を用いて男は思考の海から身を引き上げドアの前に立つ。そう、この瞬間からは鬼舞辻無惨ではなく、月彦としてこの扉を開かねばならない。屋敷の目の前の車の窓に映る自分の身だしなみを整え、愛嬌に満ちた顔を施し無惨は、月彦は、扉をたたいた。


「よく来たね、月彦さん」

外は寒かっただろう。さぁ中に入って。主人に招かれ屋敷に入る。軽やかな匂いに、暖かな雰囲気。メイドたちは休むことなくせわしなくあくせくと働き、あちらへ物を運んだり、こちらに物を運んだり。

視界がうるさいと心の中で悪態をつきながらも表面では笑顔を作り、前回訪れた時にはなかった興味のない主人のコレクションを褒めた。まったく、こんなもののどこがよいのかわからぬ。まだ玉壺の作品のほうが味わいがあるものよ、知らぬが。
気をよくした主人は月彦に己のコレクションの自慢を始める。くどくどと語るその姿に飽きないものだなと思いながら素晴らしいと声をかけた。まったくもってめんどくさい。

主人が己のコレクションを自慢をして何時間が立ったのだろうか。月彦はちらりと時計を見るも十分ほどしか経っていなかった。これならば童磨の話を聞いていたほうがまだましである。これがあと何分続くのだろうかと無惨が辟易してきたその時、応接間の扉が開かれ夫人が部屋に入ってきた。夫人は月彦に優しく微笑んだかと思うと、キッと主人のほうを睨みつける。

「あなた、今日月彦さんを呼んだのはあなたの蘊蓄に付き合わせるためではございませんよ」
「あぁそうだったな、申し訳ないね月彦君」
「いえ、お気になさらず」
「では……今日もよろしく頼むよ」
「えぇ、私には勉学の才しかありませんので」

やっと終わったと胸をなでおろし軽やかな足取りで応接室を退出する。そして洋風の階段をゆっくりと登り向かうは二階の南にある一室。
気品にあふれシックな扉をノックすると、どうぞと月彦を招く声が聞こえてきた。


「先生!」
「……やぁ紬さん、今日もいい子にしていたかい」


扉を開けたとたんに飛びついてきた女性を受け止め頭を撫でる。今の月彦はこの女性に勉学を教えていた。貿易会社の一人娘、それがこの女性──松宮紬である。紬は月彦の問いかけにもちろん、と返事をして月彦に今日あった出来事を伝えていく。主人同様、月彦にとってどうでもよい話であるはずなのに紬の話を聞いても苦にはならなかった。まことに不思議な話である。


「──、っていうお話でしたの!……月彦さん?」
「すまないね、紬さん」


君があまりにも楽しそうに話をしていたから聞き入ってしまったよ。なんて言葉が考えずとも喉を震わせる。まぁ、と喜色を顔に浮かべ年相応の女子のようにはしゃぐ紬を見てまた可愛らしいものだと月彦は紬に微笑む。今日の勉強を始めようか。そういいながら月彦は机の上に大きな知識の海を開いた。
太平洋の先にある大陸の話から、すぐ日本の向こうに存在する中華民国の話まで。地理を問われれば地理の話を。数学を乞われれば数学を。月彦に、無惨に、できぬものは青い彼岸花見つけることだけである。いや、違う。今もまだ青い彼岸花を探し続けている彼にとってできぬことなどなかった。


「相変わらず月彦さんは博識ですわね」
「そうかな、紬さんの理解が良いから余計なことまで話をしているのかもしれないね」
「今日は勉強をやめにしてもっとお話ししませんか?……月彦さんから話も聞けるのもあと少しなのです」
「……それはどういうことですか」


婚約が決まってしまいまして。お嫁に行かねばならなくなってしまったのです。他の女が流す涙なんぞ興味すらないのに、顔を覆い涙を隠す紬のなんと美しいことか。
涙を流す紬は綺麗ではあるが先に出会ったのは私であるというのに──、彼女に知識を授けたのは私であるのに、それを泥棒猫のごとく攫うとは何事か。これは私のものであるはずなのに。湧き上がる激情を無惨は押さえつけ、無惨は、月彦は紬の手に自身の手を添え紬を落ち着かせる。今必要なのは女ではなく、この貿易会社の伝手であるというのに。
己の気持ちに蓋をしようかするまいか。己のメリットをかんがえていた無惨に紬は月彦を殺すような発言をしてのけた。


「月彦さん、もしよろしければ私を攫ってはくださいませんか」
「──それ、は」


叶わないことなのでしょうか。そう問う紬に無惨は迷いを捨てた。本当に欲しいのであるならばどちらも掠め取ってしまえばよいのだ。なぜこんなめんどくさいことをしていたのだろうか。月彦は笑顔を深め、紬に詰め寄り唇を震わせる。


「今この場には誰もおりません……誰も」
「……」


紬は無惨に突き出された手を握り返す。その様子に無惨は喜色を浮かべ、紬を抱き寄せ接吻を交わした。紬が取った手は叡智を授ける好青年の手であるのか、はたまた夜の森へといざなう男の手なのかは定かではない。
今宵、琵琶の音とともに一人の男と女が消えたという。