分岐 | ナノ

書いては消して書いては消して。あぁでもない。こうでもない。ないないない。
では、どうすればよいのであろうか。そう男は悩み頭をかきながら床に転がり、天井の木目を目でなぞりシミを数えた。あっ今のシミ、鬼みたいな表情だ。なんて現実逃避したところで無情にも現実は追いかけてくるし、逃げてくれやしない。

俺は現実から逃げないが、現実が俺から逃げてしまえよと何度そう考えたことか。男はまた別の考えを巡らせる。逃避ではない。断じてない、そう、これは世界を救う物語ではなく、ただ男の食い扶持の確保のための物語である。そんな下らぬ男は文字書きであった。

望んだ文章が書けぬのだ。あ、と言いたいのならばカギ括弧をつけてあをその枠にはめればよい。登場人物が望む言葉を。登場人物が動きたくなるような言葉を。バタン、ガタンと機織り機のように文字を織り交ぜ紡いでいく。

それだというのに、男には材料が圧倒的に足りなかった。文字は読めるし書ける。男の出は武士の出であった。まぁそれも明治時代の今になっては秩禄処分を受け収入はなくなり、友人は商売を始めるも所詮士族の商法。潰れるしか他あるまい。
成功したという話を聞いても男にとっては、はぁようござんしたねの一言で片付く。人から金を借りるまで落ちぶれてはいない。

屯田兵を募集していると言われようが行き先は蝦夷である。東京でのんべんだらり過ごしていた男が蝦夷に屯田兵としていくやつなんざいやしないと蹴った話ではあったが、以外といたらしい。男の周りに今や友人はおらず、北の大地で農地改革中であった。

へっ、アイヌ人は農耕文化ではないのに、釣り竿じゃなくて鍬を持たせるなんてお門違いにもほどがあらぁ。

そもそもなんで……と己でも話が逸れだしたことに気がついていよいよ真面目に書かねばと、机に向かうもできるのはミミズだけである。そんなにミミズが好きなら自分の肌に這わせてやると、男はペンの先をつぷり、と己の肌に這わせミミズ腫れを作っていく。あぁ、書けない。書けぬが頭はかける。そう思いながら男は頭の後ろに手を回してフケを落としていく。紙吹雪みたいだなぁと呟けば、ドアをたたく何者かが。

チッ、と舌打ちをしながら男は立ち上がり玄関に向かう、なんだ誰だせっかくいい小説を書けそうだったのにと。大嘘である。

男がドアを開ければそこに立っていたのは、洋装に身を包んだ男であった。柔らかそうな表情をこさえてきてこちらに笑みを浮かべることの気味が悪いこと。

男は目の前の洋装に身を包んだ男になんのようだ、と声をかけた。男が欲しいものは時折隣の女が持ってくる魚の干物である。あと梅干しもほしい。男に声をかけられた男は笑みを浮かべて自分を月彦と名乗った。名乗られてしまっては名乗り返さねばどこか負けた気になった男は自らの名前を名乗った。


「えぇ、存じております」
「そうかい、んで、月彦さんだっけか」


何しに来たんだそう紬が月彦に問えば月彦は一冊の小説を差し出した。何年も前に出版した紬の本である。
うわ、懐かしい。そしてペンを差し出し後ろのページを開いた。なんのマネであろうか。紬が首をかしげると月彦はクスリ、と笑った。ほんとうになんのマネだ。


「すみませんがサインをいただけないでしょうか」
「…………、あっ、なるほどね」


恥ずかしい。恥ずかしいが悪くはない。初めてサインをねだられたものだから……と月彦から本を受け取りサインを施していく。これでどうであろうか。本を閉じて月彦に探すと月彦はその本を大事そうに撫でていた。

書いた本人から見るとどこか気恥ずかしく思わず頬かいた。それじゃあ俺はこれで、月彦さんも気を付けて帰りなよ、とドアを閉めようとしたその時ドアの月彦の足が挟まった。いや、月彦が足を挟んだ。まだなにか用があるのか、紬はじろりと月彦を見やる。紬はもともと目つきが悪く、にらまれていると勘違いした月彦は困り顔で紬を呼び止めた。


「先ほど私がサインをいただいたこちらの本に青い彼岸花、そして日光に浴びて死ぬ鬼の話がありましたが」


どこでその話を聞いたのですか?そう問われ紬は剃り忘れたあごのひげに手を添えながら思い返していた。あれは確か祖父から伝え聞いた話。
日の呼吸やらよくわからない呼吸の話まで聞いたが、今や刀は腰につるすだけのお飾り道具。井伊直弼が死んだ時にゃ井伊のお供は刀の柄で敵さんを殴っていたのにこのご時世に刀なんて使うかよと心の中で笑った記憶がある。


「祖父から伝え聞いた話だよ」


小説のネタにもってこいだろう。人食い鬼に青い彼岸花、日の出で焼け死ぬ鬼というのは吸血鬼だけだと思っていたが日本にもそういう話があったんだとノンブレスで月彦に言い続ける。
青い彼岸花ってのはよくわからんがもしあるのなら拝んでみたいね。そう男が言えば月彦もそれには同意いたしますと言葉を返した。


「月彦さんは鬼を見たことがあるかい」
「……なぜ?」
「いやそんなに熱心に話を聞いてくれるもんだから」


本当に鬼ってのは実在するのか気になってな、そう紬は頭をかいた。もし鬼を見たんなら鬼ってのはどういう生態で、本当に人だけを食っているのか、日の光で死んでしまうのか紬は知りたかった。

知らないことは書けやしない。先ほどから悩んでいたのは鬼の生態についてであった。鬼。おに、おにぎり。いやそれは食べる白米のうまいやつである。アツアツの米に塩をかけて海苔にくるんで食えるやつである。おにぎり……鬼斬り。
ふむ、そうだ鬼を殺す仕事でもこの小説に付け加えてしまおう。紙を取り出しさらさらとペンを走らせた。よし、あとは鬼の生態がわかれば小説一本新聞社に送り付けれるな。


「そんなに鬼に憧れますかな?」
「憧れるっていうか、生態が知りたいな」
「そうですか……」


面白いことを言うのですね。そういった月彦の目は紅梅色の目を有していた。あれ、こいつさっきまで茶色の目じゃなかったか。
紬がぼんやりと月彦を見つめていると月彦は紬の肩に手を添えた。えっ、まさか、そういう……?すまねぇが俺は男色ではないといいかけたその時月彦の唇が紬の顔に近づいていき、そして、そのまま月彦はその唇を震わせた。


「そんなに知りたいならお前を鬼にしてやろう」
「えっ」


紬の胸に咲くのは真っ赤な華。月彦の目と同じぐらいに赤いはな。
ぐらりと紬の意識が飛びそうになる。まってくれさっき書いたメモが胸にあるというのに、紬は意識が朦朧とする中で胸元から紙を取り出し汚れていないことに安堵するも、紬の手を踏みつける男がここにいた。月彦である。
月彦は紬の手を踏みつけ奪ったメモを見ると声高らかに笑いあげた。


「無意識なのか定かではないが、お前の存在はあるだけで邪魔だ」


おまけに衰退していたといえども日の呼吸の継承を受けていた一族のとはな、そういいながら月彦は紬のメモを破り捨てた。
何をするんだ、そう名前が月彦を睨みつけると月彦は床に伏している紬の頭を撫でる。


「もし、記憶が、自我が残っているのあるならば小説に鬼について書くことを許してやろう」


まぁ無理な話だな、そう月彦は踵を返しながら紬のもとから離れていく。
意識が朦朧としていく中で紬は祖父の言葉を思い返していた。日の呼吸の存在は誰にも話してはならないと。話せば最後鬼が来ると。紬は乾いた笑いを上げながら意識を手放す。彼岸で祖父に叱られるな。そのはずだったのだが。

意識を取り戻した時、紬は脱稿していた。えっ鬼の力ってすごい。目の前に広がるは活字の山々。頭が回り口も回る。うまいのなんの。

鬼の生活も悪くない気がしてきた。突然のことだが何とかなるだろう。そう思いながら紬は日の光を浴びようと窓を開けた。大やけどを負った。やだ。あつい。いやだ。むり。鬼の生活断固反対である。