瓶墜簪折




鬼舞辻無惨の心臓はむっつあった。


七瀬と死体として出会ってから様々なことがあった気もするが如何せん七瀬のあの死体の姿が脳裏に焼き付きすぎており、時勢を見て人間を笑い喰らうということはあまりできなくなっていた。しかし鬼狩りはいまだに無惨を探し続けていた。聞けば産屋敷という名字をもつものが打倒鬼舞辻無惨を掲げているらしい。どこかで聞いたことのある名字である。今の無惨にはてんで興味も記憶もないが、不思議と産屋敷という名前を聞くと嫌悪感が無惨を襲った。きっと何か過去に諍いがあったのであろう。そう適当に自身を納得させ目の前の人物に笑いかけた。己が今擬態し仕えている家である。目の前の女か男かわからぬ人間は無惨に笑いかけられ、無惨に笑い返す。そして無惨以外のその場にいる家臣どもを下がらせた。その人間は周りに人が聞き耳を立てていないことを確認し、無惨に対して口を開いた。


「今回の戦もお疲れ様でした」
「ほかでもない七瀬のためだ」


夜の間しか活動できぬがそれでもお前の役に立てて入れるのであるならば喜ばしいことだ。そういえば本当に?と言われ、あぁ本当だとも。お前には迷惑をかけ続けたからなとそう宣えば七瀬は無惨と顔を合わせてお互いに微笑みあった。今の世は戦国時代。そのような時代において無惨は早々と七瀬を見つけ家臣として七瀬の傍に居続けた。七瀬は身体の弱い弟の代わりに家督を継いでこの神無月家を支えている。家臣どもはきな臭い動きを時折見せてはいたものの神無月家の有する国々を守るためにも家臣にかけれる暇もなかった。月彦、と七瀬が口を開く。その名前は鬼舞辻無惨と往々に名前を使えぬ、言えぬ。そのため適当な名前ではあるが七瀬がつけてくれた名前ゆえに無惨はその名前を宝物のように大切にしていた。互いに接吻を交わし、無惨の手が七瀬の着物に手が触れそうになったタイミングでどこか遠くで七瀬を飛ぶ声が聞こえてきた。


「ごめん、無惨」
「……問題はない」


後での楽しみだなと無惨が茶化すように七瀬にそういうと七瀬は顔を赤らめながら無惨とたしなめた。七瀬の部屋から無惨が出ると前方から恰幅の良い男が七瀬の部屋を訪れようとしていた。その男は無惨を睨みつけている。無惨はその視線を興味なさげによけると男は無惨の足を引っかけようと足を出してきた。下らぬと無惨は男の足を踏みつけると男から悲鳴が上がる。愚か者めと言わんばかりの顔で男に失礼しましたと言えば男は己に踏みつけられた足を触りながらこちらを睨みつけていた。このまま自室に戻り七瀬がやってくるのを待つかと思い自室に帰ろうとすると男は無惨に耳打ちをしてくる。下らぬ戯言だと一蹴すると後ろから猿が喚く声が聞こえた。ざまあみさらせ。





無惨は今世こそは過ちを犯さぬように七瀬と出会った日に七瀬を鬼へと変えていた。それは青い彼岸花を探すためでも、羽虫のように鬱陶しく目障りな亡霊ども、鬼狩りの壊滅のためでもない。なぜか死にやすい七瀬が死なないようにするためでもある。鬼になれば病にかかることも歳をとって死ぬこともないのだ、己の元から離れぬように呪いをかけることも可能ではある。記憶が戻る日まで共にいることだって可能なのである。しかし弱点の首を斬られてしまえば不死性を失ってしまうというのに無惨の目の前で転がるは七瀬の首、手折られた七瀬の首である。この度の戦にどこぞの誰かがあの忌々しい鬼狩りの武器を手に入れていたらしい。そのようなことはどうでもよい、それよりも七瀬の首がよりにもよって鬼狩りの刀によって斬られるとは思ってもみなかった。

無惨は七瀬の首と胴体を守りながらやってくる敵を薙ぎ払う。家臣は舞台を分けていたために己と七瀬しかいないのが幸いではあるが無惨も表立って行動できないために少し厄介である、このような鈍よりも己の血を敵に注ぎ、そして襲わせたほうが早い気がしてきてならない。そう思いながら無惨は鬼狩りの刀を折った後にその持ち主を鬼へと変えた。

これで時間は稼げるだろう。急いで七瀬を担いで森の中へと消えていく。日光は己と七瀬にとって天敵であるからである、しかし逃げれど逃げれど追っては来る。煩わしい、そういいながら無惨は森の中を潜り抜けると隣で声がした。七瀬の声である。首が復活したというのかと無惨が問うと頷く七瀬。己より先に首の弱点を克服していることに筆舌に尽くしがたい感動を無惨は覚えた。二人の鬼であるならばこの場を抜けることは可能である。家臣からの伝達も入らぬのだから己で首を上げるしかあるまいよとそういいながら七瀬と無惨は敵陣へと向かっていった。雨は上がりそうにはない、天はこちらに味方をしている。

敵陣に乗り込み、敵大将の首を落とせばこちらの勝ちである。七瀬が落ちた相手の首を掴み上げる、それがこの合戦の終わらせる合図であった。





戦勝を記念して宴が開かれ、皆のものの飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎである。卑しい言葉が飛び交うもこの場においては無礼講。誰もそれを咎めるものなどいやしなかった。七瀬はお酒をちびちび飲みながら無惨と談笑をする。やれあの時は助かったやら、月彦が居てくれておかげやら。月彦と呼ばれた無惨は七瀬以外には協力するつもりがないので、それはお前が七瀬だからだと返答する。そして辺りを見渡し己にケチをつけてきた恰幅の良い男を見渡すもおらず。一体どこへ行ったのであろうかと七瀬に聞くも戦にはいなかったなと酒をまた呷った。飲みすぎだと言えばケチと返された。全くもって解せぬ話である。そしてこのまま家に帰れば此度の戦も勝利で終わる。そう、拠点としていた館が真夜中に誰かによって火を放たれなければ。

神無月家を継ぐのは七瀬ではなく弟君であるとそのような大義名分を掲げた家臣どもが下克上を起こした。この場合下克上ではなく裏切りかなと七瀬はとぼける。悠長なことを言っていて良いのかと無惨が言うと熱風が立ち込める中で七瀬は無惨の裾を掴んだ。その目つきはいつもの七瀬が死を決意した目つきであった。


「無惨、私は逃げられないの」


今ここで私が生き残ってしまったら神無月家の家督をめぐって家臣たちが争いを始めるかもしれない。この裏切りは起こるべくして起こったようなものだから、首の弱点を克服した私の心臓を食べてほしい。私を殺してと言う七瀬に拒む無惨。これじゃあ平安時代のあの頃みたいねと七瀬が火が燃え移る部屋の中で無惨に笑いかける。しかし無惨は七瀬に笑い返すことはなかった。それでも七瀬は笑い続ける。夜明けも近くこれではお互い滅んでしまうと七瀬が再び口を開くと無惨は震える手を抑えながら七瀬に近寄り固く抱きしめた。


「また、会えるのだな?」
「……うん」


七瀬があいまいにぎこちなく笑う。うそつきめ。そう無惨が呟くと七瀬は眉を八の字にしながらごめんと申し訳なさそうに謝った。謝罪しろといった覚えはないとそういえば七瀬は無惨はやさしいんだねと無惨の背中に手を回す。無惨は七瀬に別れを惜しむかのような接吻を落としていく。それは砂糖のように甘い接吻ではあるがどこか寂しさを孕むような接吻であった。二人が熱を上げると炎もそれにつられて激しさを増していった。外では家臣どもの裏切りの声が聞こえていた。


「これからも記憶がなくても私はあなたのことを」


お慕い申し上げます。その言葉を聞き届けた無惨は七瀬の首筋に歯を突きたて、心臓を喰らった。鬼の始祖によって直々に殺された七瀬の身体は鬼であろうと再生はしない。する必要もないのだから。たかが外れたかのように、なにかに火をつけられたか灰のように七瀬の身体は崩れ落ちていく。七瀬は無惨に微笑みながらその姿を崩していった。

長い眠りにつくかのように目を閉じる七瀬に無惨はいくなと零すも後の祭り。七瀬の身体は火を放たれた寺と共に朽ち果てていく。硝煙の匂いが立ち込める。早く脱出しなければ。ここにいる必要もなくなった、七瀬はもういないのだ。
そう思いながら無惨が屋敷を後にしようとするも、炎に照らされた己の影は縫い付けられたかのように動くことはない。ここから出なければ彼女との約束も果たせない。この場において己が彼女にしてやれることはなくなってしまったのだ。唯一大切なものと引き換えに鬼舞辻無惨は弱点を一つ克服した。とても大きい犠牲であった。
しかし彼女のことを考えるとこれで良かったのではないかと不思議と思うようになるのである。それは己の非を正当化しているのかもしれない、しかしそれは違うと七つの心臓が訴えるかのように無惨の胸をたたいた。そうだ、彼女も言っている。私が間違えたことはないと。無惨はその言葉を吐きながら崩れゆく屋敷を後にした。


鬼舞辻無惨の心臓はななつになった。それ以降無惨がどこを探そうが七瀬が無惨の目の前に現れることはなかった。