盈盈一水




鬼舞辻無惨には心臓がよっつあった。


世の中は既に鎌倉時代。同族を殺め、平氏を殺め、果てには己の弟を殺めた男は落馬によりあっさりとその命を落とした。その息子は義父に反抗し幽閉の果てに己の祖父に殺められ、三代目は義父の一族にはめられその血を閉ざす。源氏が栄華を誇ると思われていた武士の時代は策謀によってあっさりと枯れはてた。これでは己とやっていることは変わらぬではないか、無惨は人間を喰らいながら人間の隆盛と凋落を眺めていた。時流れは時に早く時に遅い。

近くで人間が己の親族を食われたと騒ぎ立てている。姦しい。無惨はその人間に己の血を分け鬼へと変える、人を喰らったときに同じ涙が流せると良いなと嘲笑うとその人間は叫びながら人里へと向かっていった。

無惨は多くの人を鬼へと変えた。それは数百年前から変わらぬ目的である青い彼岸花の発見と己の妻を見つけ出すことである。何も無惨とて女の、七瀬の心臓を喰らいたくはなかった。しかし己の心臓に寄り添う3つの心臓が喰らえと囁くのだ。喰らわぬと何かが起こると言わんばかりに、杞憂であるとわかってはいるがこれらの心臓の持ち主である七瀬のことを考えるとそのような疑問を持ってはいけない。あの薄暗い部屋のなか、狭い一畳ぐらいの布団の世界。閉ざされた世界から己に光を向けたのは七瀬である。今もこれからも心を許せる相手は七瀬だけであった。よっつめの七瀬は己の記憶すら有してはおらず、果てには己と共にいることを拒んだが。それは時勢と出会い方が悪かったのだ、何も己とてであったばかりの男に靡くとは思ってはいなかった。思ってはいなかったがあの時伸ばした手を掴んでくれていたら。

しかしそれは過ぎた話である。今回は同じ過ちは犯さぬ、私は何も間違えることはない。そして今日、とある鬼の視界に七瀬を見つけた。鬼は尊い犠牲であったなと無惨は鬼の頭を砕く。琵琶の音と共に無惨は闇夜へと消え、無惨は彼女の元にゆっくりと歩み寄り、さも偶然通りかかったような装いで七瀬に大丈夫ですかと話をかける。
目の前で破裂した鬼の死体をよそに七瀬は驚いた顔で無惨を見ていた。無理もない、目の前で人間の頭が勝手にはじけ飛んだのだから。私の家が近くにございますと先ほど用意した家に呆然としている七瀬を上がらせれば七瀬は依然と無惨の顔を見ている。私が何かしたというのであろうか。嫌われたのであろうか。恐る恐る無惨がどうかなさいましたかと七瀬の頬に手を添えれば彼女は無惨の裾を固く握りながらどこか縋るようにか細く己の名前を呼んだ。数百年前に七瀬から呼ばれて以降呼ばれなかった己の名前を。

私を思い出すまでに何度死んだのであろうか、己が知っているその眼差しを向けた七瀬に無惨は彼女に笑みを返した。記憶があるのだなと無惨が言えば七瀬は目じりに涙をためながらコクリと頷く。やっと出会えた。彼女は生きている。それがどんなにうれしいことであろうか、久方ぶりに己の心臓がひとりでに他の心臓たちをおいて脈を打ち始めた。無惨は七瀬の手を握り歩き出す。無惨は七瀬に接吻を落とす、これからは共に生きることができるとそう思いながら。しかし此度の縁もそしてこれからも奪われ続けられるのだ。


七瀬が何者かによって投げ入れられた毒に侵され死んだのだ。


無惨は七瀬に思いを馳せる。七瀬は幸せであったのであろうか。くだらぬ理由でいつも息絶えていた七瀬に此度の生は幸せなものであったのであろうか。あの日己と出会い、幸せな時を過ごしていた気がする。無惨はそう思わざる得なかった。無惨はここ数百年の間に最も幸せであった七瀬との日々を懐古する。日光に出れぬ己の身を呪いながらも七瀬と過ごしたあの日々は格別な記憶としてこれからも残り続けるのであろう。その幸せを奪った人間は幾度殺しても飽きぬほどである。しかし悲しきかな人間は殺しても鬼のように体を再生するわけではなかった。

七瀬が死んでしまったあの直ぐ後に、無惨が毒を投げ入れた人間を見つければこの人間は醜くも己に命乞いをし、あの女が悪いのだと己が思っても見ないことを勝手にしゃべりだす。その言葉の一つ一つは無惨にとって癪でしかない。七瀬に求婚し断られた腹いせに裏の川に毒を流したやら自分がいる前で己の話をする七瀬が悪いやら。どれもこれも七瀬への責任転嫁。聞くに堪えぬ戯言ばかり。我慢ならなくなった無惨は人間に己の血をふんだんに注いでいく。途端無惨の細胞によって耐え切れなくなった人間の身体はドロドロに溶けていった。その様子を見ながら無惨は次七瀬に出会ったとき、七瀬を鬼にしてしまえばよいとそう思い無惨はその場を後にした。


無惨の心臓に五つ目の心臓はあり続けた、しかし毒に侵された脳だけは無惨の体内に居続けることは叶わずどこかへ流れていってしまった。