雪泥鴻爪




鬼舞辻無惨には心臓がみっつあった。

七瀬と別れてどれだけの歳月がたったのか。あの男を喰らった日から真面目に数えてはいたもののまた元号が変わった。その上天皇の座を狙い戦を始めたりする世の中となってしまっている。物騒である。しかし元号が変わろうが時代はいまだに平安の世である。当初は天皇の座をかけて戦が勃発していたが、武士の登場などによって天皇は一介の氏を持つ天の子に支配権を奪われようとしていた。

保元の乱から平治の乱はたまた鹿ケ谷の陰謀より始まった平氏と源氏の合戦は全国にまでその戦火を広めている。無惨は人間のことには関心を抱けない。無惨に関心があるのは青い彼岸花と愛した七瀬のことだけである。ついこの前、と言っても50年も前のことであろうか。無惨は人間を己の血によって己の配下につくことができるようになった。
七瀬のおかげかは知らぬ話だがよくわからぬ力によって相手の視界を共有できることも容易にできるようになったし、己の名前を言うだけで配下である鬼は呪われ自壊する。青い彼岸花を探すためには仕方がないことであると無惨は人間たちの死を見ないものとした。七瀬を殺したのが人間だからであろうか、はたまた別の理由があるのかはわからぬが何せこの平安時代末期は災害が多いのだ、大火に辻風、飢饉に大地震。そして長岡京への遷都。これらが平安時代の5代災害とされていた。平安時代はよく人が死ぬのだ。災害よりも人間によって殺されているほうが多いのかも知れない。雨乞いのために生贄を捧げている人間どもを嘲笑うかのように血の雨を降らせたことは懐かしい話である。
さて、約8年に渡ったこの戦乱ももう終結間近であった。平氏の誰かは知らぬが兎にも角にもそいつが大仏を焼き払ってからというもの、神が平氏に怒ったのか日ノ本の西の地方を中心に食料難が続いた。のちの世では養和の大飢饉と呼ばれるその災害は天罰ともいわれているとか言われていないとか。

季節、気候、虫の大移動などによって発生する食糧難を神のせいだという人間には呆れたものだと鬼の始祖は知らぬところで人間どもを馬鹿にする。自分より劣っている人間がどうなろうと己には関係がない。
源氏物語が宮中を騒がせてからもうすぐで200年が経過するのかと無惨は喰らっていた人間の腕を放り投げる。この時代はこちらが殺めずとも人間が調達できて楽であった。
どこかの場所で時の法皇が源頼朝に東国の支配権を任せたという宣旨が下った。平家が都落ちを果たし、さらへ西へ逃げたという話も聞いたばかりである。この合戦は間もなく佳境を迎えていた。8度も季節が変化したというのに人間に進歩がないことに失笑も禁じ得ないが、もうじき大勢の人々が凋落し、死に絶える。死んだ者に成り代わるのもまた一興なのかもしれぬと思いながら無惨は、天皇がおらぬ西へ赴いた。それが己の運命を変えるとは知らずに。





源氏が仲間割れしているやら、讃岐国にて弓の名手が船の上に扇を打ち抜いたやらくだらぬ話も聞いてはいたが、無惨が待ち望んだ日がやってきた。
──長門の国の壇ノ浦にて滅亡する日である。この日は悲しきかな、憎々しきかな、あいにくの晴天である。これでは己が身を現すことが叶わぬと言いながら無惨は傘を深くかぶり日光をよけ合戦の様子を至極興味のないように眺めていた。雨乞いをしなければならぬなと心の中で戯言を零し、平家が滅亡する様子を眺めていたが無惨は見つけてしまった。その、船のなか。一隻の、たった一人。見知った顔が船の上で悲嘆に暮れていた。なぜここにいるのだ。無惨は鳴女に銘じて己を女の船の近くにまで寄せ付けた。己が見間違うはずがない。七瀬である。

女は、七瀬は次々と海へと身を投げ出す血縁者を眺めて泣いていた。傍らには幼子が力なく伏していた。己が死ぬのが怖いのだろうか。無惨は優しく泣いている七瀬に話しかけた。私ならお前を救ってやろうと。

しかし七瀬は首を縦に振ることはなかった。なぜだと無惨が言葉を並べると七瀬も無惨に拒絶の言葉を並べ始めた。愛する夫のためだとか、お仕えする君主のためだとか。全て言い切った後に七瀬は悲しそうな顔をしながら無惨に笑いかけた、知っている笑顔である。思わず無惨が七瀬、と口に出せばどこかであったことがあるのですねと無惨に笑い返した。記憶がないのか。陰陽師であったころは奇妙な術で知ることができたのであろうが、今世七瀬はただの女であった。これから死にに行く女である。兎にも角にも七瀬は無惨に笑いかける。話していて気がまぎれましたと礼を述べながら力のない七瀬の子であろうものを抱きかかえた。私の知らない男の子供、即刻切り捨ててしまいたかったがここで記憶のない七瀬に求めても酷な話であるし、七瀬はその子を大切に抱えすぎていて切り捨ててしまうと七瀬の美しい素肌が汚れてしまうかもしれなかったののである。

再び無惨が七瀬に私が救ってやろうと七瀬に手を指す出すと七瀬は首を横に振った。なぜだ。


「私だけが生き残るのはあり得ぬ話でございます」


なりませぬと断る七瀬に強いる無惨。埒が明かぬと無惨が身を乗り出したその時である。七瀬はわが子をぎゅっとさらに力強く抱きしめ再び口を開いた。


「二位の尼君がおっしゃっていたのです、海の底にも都はあると……」


そう言い終わるか否やの最中七瀬の乗る船は波に攫われ、船は船底を空に見せた。女も乗っていた子供も見な海の底へと落ちていく。彼女が纏っていた着物が地へ堕ちていく天女の羽衣のように美しかった。まってくれ七瀬。

しかし海の底には竜宮城も何もないのである。あるのは人骨に魚に海藻だけである。無惨は己もいないところへ七瀬が行くことが許せなかった。太陽の元に晒されることを知りながらも無惨は海の中へと身を投げる。ひらりひらりと落ちていく七瀬を引き上げるも七瀬は既に酷く冷たくなっていた。

無惨は風前の灯火となった彼女に延命処置を施すも息を吹き返すことはしない。酸素が足りなくなったことにより脳みそが動くことをやめたかは鬼の始祖には知らぬ話だが、七瀬が息を吹き返すことがないと知った無惨は七瀬の心臓が無くなってしまわないように七瀬を食べた。壇ノ浦に無数の人間が落ちていく、その先は地獄であろうか。天国であろうか。そのような黄泉の国はありはしないと無惨は少し考えたところで首を振る。焼かれていた己の身体は雨が降り出したおかげで焼かれることはなくなった。

次はどこに行けば彼女に出会えるのであろうか。鬼舞辻無惨は壇ノ浦を後にする。ここにはもう何もない。あるのは人間のちっぽけなプライドと怨嗟だけである。


鬼舞辻無惨の心臓はよっつとなった。しかし愛する者はこちらを愛してはくれず、彼女の脳みそはそこへと向かっていった。時は鎌倉時代を迎えようとしている。