社燕秋鴻




鬼舞辻無惨には心臓がふたつあった。


七瀬が死んでしまってから何年の時が経ったのかは覚えてはいない。平安時代は約400年という長い歳月を有しているし、天皇はころころとことある毎に代を変え、様々な理由をつけて元号を変えた。己が生まれるずっと前の天皇は白い雉を献上されたことに喜び元号をその名に変えたという。

天皇が人間が決めた掟やルール。そんなものは己には最早関係がない。そんなものよりも無惨は今日明日もそしてこれからも死に別れた愛する女を探し続ける。七瀬。いつからか彼女の声は無惨には聞こえなくなってしまっていたが、夜、木々すら寝静まる丑三つ時。原っぱの間をかき分けて、青い彼岸花を探すついでに出かけていた無惨は唐突に立ち止まり己の旨に手を当てた。風すら吹かぬ静寂さは無惨の心臓の音を大きくさせる。

トクリ、トクリとと己の心臓がぎこちなく動く傍らで七瀬の心臓が無惨の心臓に寄り添うかのようにまた同じくトクリトクリと動いていた。

空を見上げると月の形は満月ではなく、新月。月の始まりである朔日であった。無惨を照らす存在はいやしない。もうあいつも、七瀬も死に絶えてしまったから。そう思いながら無惨は空に向かってポツリと言葉を零した。誰も反応しないその言葉を。誰かが答える前に一陣の風が無惨に、この原っぱに、吹き荒れた。秋特有のさわやかな風であるが死人花と呼ばれる曼殊沙華はそよそよと風に揺られて無惨を笑っていた。
──気に食わぬ。そう思いながら無惨は死人花を手折ると近くに存在した民家に曼殊沙華を放りこみそのまま原っぱを後にしようとした、その時である。烏帽子を被り宮中で働いているような風体をしている男に声をかけられた。

「私の名前を呼んだのは貴殿であろうか?」
「──」

初めは睨みつけるかのように男の顔を見つめていたが男が持っていた提灯の灯りによってその顔が明らかになった。にんまりと笑うその顔を見て無惨は目を見開いた。そんな、まさか。その男の顔は忘れられるはずがない顔であった。数百年も前に死に別れた己の最愛の人、七瀬である。

女だと思って探していたが男になっていたとは、盲点であった。そのような事を考えていた無惨を見ながら七瀬であるはずの男が口を開く。とぼけたようにしかしどこか的を得たようなとぼけ方である、あの女もこの己をからかったときにこのような言い方をしている気がする。……年月が経過し七瀬のこともおぼろげになってきているのかもしれない。認めたくはないことではあるが。

「人違いであったかな?」
「貴様で間違えはない」

無惨がそう言うと男は扇子を仰ぎながら機嫌良くそうであろう、そうであろうと言いながら懐より何かを書かれた紙を取り出して月の居ない空へとかざすと眠りについていた月が突如目を見開いたかのようにさらに現れた。困惑する無惨にその反応が見たかったと男は無惨に右手を差し出した。

「名は神無月七瀬という」
「……鬼舞辻無惨だ」

無惨がそう口を開くと男の七瀬は無惨に一本取ったかのような得意げな顔を浮かべて知っていると言ってのけた。なぜだと問う無惨に七瀬は陰陽道の力で前世が分かったなどと宣った。ばかばかしいそう吐き捨てた無惨に信じてはくれぬのかと眉を下げて七瀬は目に見えて落ち込んだ。記憶がなかろうとそういうところは似ているのだな。そういえば七瀬は本当か?と嬉しそうに無惨の手を上下に揺らした。これが神無月七瀬との二度目の再会であった。





「いやぁ大量大量!」
「術を使い魚を取ったところとて何も面白いことはあるまい」


七瀬にかまってもらえないのか拗ねる無惨にそれを見て愛おし気に笑う七瀬。今この平安の世には疫病も戦も何もなくただただ平和であった。

七瀬は無惨を自らの屋敷に住まわせて二人で女房も置かずに悠々自適な生活を送っていた。残念ながら今世では男であるといった七瀬に無惨はかまわないと宣った。性別なんぞ二の次である。今はこうして七瀬と同じ時を過ごせるだけで良かったのだ。こうして過ごして何年の時が経過したであろうか。5年以上も七瀬と同じ時を過ごしている気がする。トクリと脈打つ二つの心臓も七瀬との日々を喜んでいるようであった。このような日々が毎日続けば良いと願っていた無惨であったがそのような淡い期待はすぐに打ち砕かれた。

七瀬に皇太子の暗殺疑惑がかかったのである。その話を聞いた時に無惨は何かの間違いであると否定しようとしたもののこの世において無惨は何も力は持ち合わせてはいない。時の左大臣や右大臣であるならばどうにかできたのかもしれない。七瀬に着せられた冤罪のように他者に罪を擦り付けることもできたのかもしれないが無惨は無惨であった。この疑惑をかけられた当の本人はさもどうでもよさそうに、己には関係がなさそうに無惨に今日の夕餉を聞いてきた。違う、そうではない。無惨は七瀬に助けを求めてほしかったのだ、たすけてとたったよっつの音を連ねてくれれば宮中に存在する命を刈り取ることは難しいことではなかった。
そも、なぜこのような疑惑がかかったのかと七瀬に無惨が問うてみたところ七瀬は茶化しながら嵌められたのかもしれないと、そう零した。


「まぁ悩んでいてもしょうがあるまい」


飯が冷めてしまうぞ、そういいながら無惨に食事を勧める七瀬であったが手が震えていた。おい大丈夫かと声をかけようとした無惨であったがそれは突如屋敷に上がり込んできた兵士たちによって遮られた。七瀬が皇太子を殺めようとした証拠が出てきたのである。もっともそれは作られたものであるがそれを証明する術すら己には持ち合わせていなかった。そうであるならば。


「おい、七瀬」


逃げるぞ。無惨は七瀬の手を掴もうとすると七瀬は無惨の手から自らの腕をひいた。おい、これはどういうことだと無惨が七瀬を睨みつけると七瀬は怒らないでくれたまえと言い、兵に囲まれながら無惨に笑いかけた。


「私は死なぬよ」


そういった七瀬は今日、処刑される。





「いやぁ、私のために長らく廃止されていた処刑を行われることを嬉しく思います」


人が今日一人人間の手によって殺されることを憂いたのか太陽は顔を出さずに、代わりに悲しみを表すかのように雨を降らしていた。感情を見せるのであるならば七瀬を助けよと天に思えど何もご利益が出ることはなかった。所詮神は人間が行う雑戯には無干渉であった。

久しぶりに血が見れると騒いだのか、はたまた罪を犯した人間の顔を拝みに来たのか集まった大衆に紛れて無惨は七瀬を見つめていた。いつ助け出せばよいのであろうかと機会をうかがう無惨。そんなざわつく大衆をよそに七瀬は今から殺されるような気持ちなんぞ持ち合わせてはいないようであった。なにか当てがあるのであろうか。処刑される七瀬はきょろきょろと辺りを見渡したかと思うと己を見つけにっこり笑いかけた。あの時代の七瀬とは違う笑顔である。無惨はその七瀬の笑顔に思わず人ごみをかき分け七瀬の目の前に躍り出ようとしたが七瀬はそれを良しとはしなかった。

ブツブツと何かを唱えた七瀬の術の力によって無惨はその場に縫い付けられた。陰陽師とはこのような場で面倒よなと思いながら術を解こうにも解けず。その無惨の様子を見ていた七瀬は無惨に笑いかけた。それは無惨の己の状況を笑いかける笑みでもなければ、七瀬自身の不幸を笑うための笑顔ではなかった。時折女であった時の七瀬が無惨に見せていた笑顔である、思わず息を止めた無惨に七瀬は再び意地の悪い笑みを浮かべ口を開いた。


「前世の契りであろう?」


喰らえよ、食らえ。たんと召し上がれ。無惨が寂しくならないように私を連れて言っておくれ。そういいながら七瀬は自ら腹を裂き、首を絶たれて死に絶えた。七瀬が死んだことによって術が解け、すぐさま無惨は七瀬の元に駆け寄る。途中人間どもがなにか騒いでいたがそのようなことかまう暇もなかった。七瀬の遺体に無惨は群がる人間どもを殺し七瀬を取り込んだ。


化け物と私を謗る者共の声が聞こえる。私に弓を弾く人間どもがいる。しかしそのようなこと無惨にとってはどうでもよいことであった。

七瀬を殺した人間はどこにいるのであろうか。七瀬を食べ終えた無惨はギョロりと辺りを見渡す。あいつではない、こいつでもない。ではあいつか?いいや違う。四方に目を配らせているとやがて柱の陰でこちらをうかがい委縮している男を無惨は見つけた。

──あいつだ。あいつが七瀬を死に追いやったのだと無惨は男の足を切り落とした。己に突き刺さる鉄矢が酷く煩わしい。そのようなもので己が殺せると思っているのかと無惨は辺り一帯に血の池を作り出した。地獄というものは存外作れるのだな、そう思いながら無惨はこちらに怯えた顔を向けていた七瀬を殺した男の顔面を己の触手で穴をあけた。宮中に血はご法度である。直に追加の塵芥どもが姿を現すであろうがそのようなことにはもう興味が無くなっていた。

今の無惨に必要なのは七瀬を弔ってやることである。食らった七瀬の心臓と脳はまたも無惨の中で生き続けていた。トクリと動く音が聞こえる。こちらにやってきた増援を一瞥し無惨はその場を後にする。
京にて鬼が現れることはこの時代にはついぞなかった。


鬼舞辻無惨には心臓がみっつとなった。しかし愛するものは殺されてしまった。
七瀬の脳みそはまたも消化されずに無惨の中であり続けた。