百代過客




鬼舞辻無惨には心臓がひとつあった。

それは人間と何ら変わりはない己の心臓であった。か弱い心臓である、鬼舞辻無惨の心臓は己が荼毘されるという、すんでのところで脈を打ち始めた心臓である。しかし神の悪戯なのか定かではないがその心臓は他の人間よりも弱かった。心臓が弱いだけではなく死神に魅入られたかのように無惨の身体は弱かった。いつも無惨の傍には死神が今か今かと手ぐすねを引いていた。死神はもう無惨の側には居るはずがないのだが不思議な話である。

荼毘される寸前に息を吹き返した彼はいつ生まれたのかはわからない。故に誕生の初夜に行われた祝宴も、産毛を剃るという剃髪の祝も行われなかった。
誕生の50日目を祝う儀式である五十日の祝は行われたものの無惨は食べた餅を喉に詰まらせて死にかけている。祝いがなんだ、これでは死ぬための儀式ではないかとその場に居た父親は畜生を見るような目で無惨を見ていたらしい。誕生から100日が経過した日に行われる同様の儀式は五十日の祝にて無惨が持ちを喉に詰まらせたこともあってか行われることはなく、無惨は日の当たらない部屋に押し込められていた。


普通の人間のような事すらできない。


やがてそんなことが言われるようになると屋敷の人間は無惨に興味を無くしていった。それは無惨が身体か弱いという原因から来ているものではなく、一重に健康な子すら産めぬ無惨の母親に無惨の父親が愛想を尽かしただけである。時は一夫多妻が主流であった。故に無惨の父親は他所に女を作り子供をこさえ帰ってくることはすくなくなっていった。母親が無惨に何かを宣っていたのを覚えては居るがいかんせん無惨の年齢は二桁も行かぬ子供であった。女と男の痴情のもつれなんぞ知ったことではなかった。きっとこれからも無惨には関係のに出来事であろう。

父親が外で作った女の氏は産屋敷といったかはたまた、そのようなことは気にとめることはないだろう、私には関係の無いことだと無惨は布団の上でこみ上げてくる嗚咽に喉を押さえる。父親からの寵愛を受けなくなった母親が無惨の様子を見に来ることもほぼほぼ無くなっており、この部屋を訪れるものは無惨に食事を持ってくる人間ぐらいであろうか。父上が来なくなった原因は私にはないであろうが遠因として私のせいなのだろうと他人事のように考えていたのだ。だって無惨は父親の顔を知らない。無惨は父親のことも母親のことも考えられない、自分のことで手一杯だった。嗚咽が収まらず、桶に先程食べた食べ物を吐き出す。気持ちが悪い。

身体が弱い無惨は何をしているわけでもなく毎日のように病魔が無惨の身体を蝕んでいく。布団の上で過ごしているせいで筋力は衰え、肌は不健康を装うかのように青白く。身体が弱い故に主要な通過儀礼を行わずに生きてきた無惨に幼名以外の名前は存在しなかった。元服を果たす歳になっても無惨は布団の上が己の城であった。己の世界であった。
とくり、とくりと打つ心臓は無惨の死ぬのを数えているようである。目を閉じれば己の脈打つ心臓の音が聞こえた、死を待ち続ける己の心臓がいた。心臓は無惨を今でも笑い続けている。いやだ、死にたくない。漠然としたほの暗い不安に襲われ、胃が痛いのか脳に酸素が行き届いていないのか酷く息苦しい。胸が気持ち悪い。
先程のように吐きそうにも先程吐き出してしまったせいで胸が裏返るような感覚しか覚えなかった。呼吸ができない。苦しい。誰かと苦しそうな声で助けを求めても鬼舞辻無惨には誰にもいやしなかった。そんな無惨の元に縁談の話がくるまでは。

周りの人間は通常男が女の元に通う妻問婚なはずではあるが、無惨は身体が弱く女の元に通うことができなかった。故に婚礼というものは己には関係のないものだと考えて無惨には寝耳に水の出来事であった。どうしてかと聞けば嫁いでくる女の後ろには天皇がいるらしい。己が摂政となろうとする卑しい父親が考えた末の縁談であった。身体が弱いのに子など成せるのかすらわからぬというのに。無惨は自分の婚姻ではあるが興味なさげに時折鯉によって跳ね上がる池の水しぶきを眺めていた。

母親、父親に興味を無くされた無惨は人を頼る術も知らず。人を信じることを余り理解していなかった。とどのつまり家に一人、人が増えるのであろう。女の名前は神無月七瀬というらしいが、どうせ互いに顔を覚えることなく生を終えるはずだとそう思いながら無惨は運ばれてきた柑子を口に含んだ。さっぱりとした果物である。ケホリと無惨は咳をして酷く冷たい布団に潜り込む。今は春。正月を迎えまた歳を重ねた無惨の命はあと5年。死は着実に無惨に忍び寄っていた。





日常生活になんら変化をもたらさないであろうと予想していた七瀬の存在は無惨の予想を大きく狂わせ無惨の日常生活に変化をもたらした。朝起きれば七瀬が側におり無惨に食事を持ってきた、昼間は屋敷のものに混じってお針子仕事をしているのを無惨は知っていた。当初無惨はいじめられているのではないかと七瀬に尋ねてはみたが七瀬は無惨に着物をこさえたかったらしく恥ずかしげにできあがった着物を無惨に渡してきた。手に傷をつけながら着物を渡されたときに無惨は七瀬の顔を二度見した。意味がわからない。


「これは……?」
「これは無惨様が元服し、宮中にて仕事を成すときにお召しになる服でございます」


本来であれば女房などが行うのですが私が行いました。少し失敗したとこもあるのですが着ていただけると幸いですという七瀬に言われ着物を見てみると少し縫い目が雑なところもあった。手先が器用ではないのだなと無惨が茶化すと彼女は顔を赤らめながら無惨の方を優しく叩いた。七瀬の体温が無惨に伝わる。人とはこんなにも暖かかったのか、ほぉ……っと感嘆する無惨に七瀬は何か余計なことをしてしまったのでないかと無惨の顔を覗いていた。そのような七瀬の様子を見て、無惨は己の心がじんわりと、何故か温かくなる気がした。この感情は今までに無かった感情である。これが愛おしいというものなのであろうか。己の顔を覗いてきた七瀬は無惨の顔を見ると彼女自身の顔を赤らめていた。やめろ、私も恥ずかしくなってくるではないか。

何かをしてやりたい。そう思うも無惨は七瀬に、彼女にあげるものは何一つ持ち合わせてはいなかった。喜ばせるために和歌を送っても七瀬は和歌に面白みを見いだしたりはできないらしく共に庭に居る鯉やら、彼女が持ってきた甘味を共に食べたりしていた。何もしてやることがないと言ったときもあったが七瀬は無惨の頭を撫でながら共に入れることがうれしいのですと言っていた。そうだ、一緒に居てやれば良いのだ。無惨は父上のせいで狂っていった母上を見ていた。せめて自分だけは七瀬の側には居続けよう。

七瀬のためにも生きなければと思い立った無惨は親の力を借りて腕の良い医者を呼び込んでいった。一日でもいいから長く生きたい。彼女の隣で笑う己を想像して柄ではないなと首を振ったときもあったがそのようなことはどうでもよいのだ。20歳までしか生きられぬと言われたあの日から数年も経っている。四季がなんど巡ったことであろうか。無惨が20歳になるまであと3年もなかった。

毎日薬を飲めど己の身体は酷く鉛のように重く布団に潜り込んだまま日を落ちるのを待ったときも存在していた。七瀬はその様子を見ながら無惨を必死に看病をしていた。彼女が心配する顔を見ながら無惨は満たされる気持ちになり、再び前へ歩こうということを、明日へ期待しようと言う気持ちを持ち、生を諦めることをなく日々を重ねた。全ては己の女のためである。しかしそれも実ることもなく無惨は年が超える大晦日の日、己が年齢を重ね二十歳になる前日に医者の頭をナタで砕いた。

医者の死体はどこかへと消えてしまっていたが、この平安時代突然死体ができあがり、移動し犬などの畜生に食われてしまうのなんて日常茶飯事である。誰も医者の存在に気にもとめなかった。七瀬は医者が来ない原因を己が良くなっているからだと勘違いしているようであるし。事実あの医者を殺めてからの無惨の体調は頗る良かった。その代わり無惨は人間ではなくなってしまっていた。視界に入る人間に食指が動く。そのことは誰も気がついていないのだ。日光の下には出ることは叶わなくなった事だけが心残りではあったが七瀬と一緒に居られる時が増えたのは無惨にとっては朗報でしかなかったが、死神すらいる世界である。そう世の中うまくいかないものである。先に述べた衛生管理のせいで都はしばしば疫病の脅威に晒されていた。天然痘という大それた病ではない。ひっそりと現代には存在しない病が宮中を襲ったのである。それは死神の気まぐれかはたまた。そのような事は誰にもわからない。ただわかることは大勢の人間が息絶えた、という事だけであった。それは人間であるなら誰しもが掛かる病である。そう、例えば無惨の横で笑っている彼女にも。





七瀬が体調を崩したと聞いたとき、無惨は己の耳を疑った。不確かな情報を私に持ち込んでくるなと言いたくなったがそれも布団に伏している七瀬の姿を見たときにそのような言葉すら忘れてしまった。昨日まで無惨の隣で笑っていた彼女が伏せっている。息は絶え絶え、体温の低い無惨が七瀬の手に触れる。熱い。健康なものの体温ではなかった。心配する無惨に七瀬は鉛のようになってしまった身体を起こし無惨の頭を撫でた。


「大丈夫です、大丈夫。きっと良くなります」
「……本当なのだな?」


そう聞く無惨に七瀬はこくりと頷いた。お互い根拠はない、しかしそれでも前に、共に生きたいが故に存在した淡い期待であった。それも泡沫の希望でしかなくなるのだが。この病にかかった人間は完治することがないのは有名なことであった、故にかかったものは身投げをし、雑木林へと自らの遺体を投げ捨てていたというのに。無惨はそれでも七瀬言葉を信じていた。都中の医者をかき集め七瀬の治療に当たらせたものの彼女が回復することはついぞ無く。無惨は無能な医者を切り捨て、喰らい、己の糧にしたせいで都から医者は消え去っていた。生き残っていた医者もどこからか漏れ出した人食い鬼の存在を恐れて北へ南へ東へと蜘蛛の子を散らすかのように宮中を離れていった。己の行いで治るものも治らなくなった事はつゆ知らず。

不如帰が飛び去ったある日の夜、無惨は七瀬に呼び出された。七瀬は体調を崩した日よりも更にやつれておりかつての己を見ているようであった。無惨が部屋にやってきたことを捉えた七瀬は無惨に笑いかける。おい、まて。無惨はどこか嫌な予感がして七瀬が口を開くことをやめさせようとしたが七瀬はそれでも口を開くことをやめなかった。無惨の握りしめた手から汗が流れる。その言葉は聞きたくなかった言葉であった。


「貴方が鬼になってからもずっと一緒にいたかったのですがそれも叶わない……。ですから私の心臓を食べてください。脳までも。全て食べてください、あなたと一緒に居たいのです。来世も、さ来世もずっとこれからも私を見つけたら私を食べてください。」
「……それは」


渋る無惨に七瀬はへにゃりと全てを諦めたかのようにもう身体の感覚がないのです、苦しみも痛みもありません。無惨様、貴方ならこの意味をおわかりでしょう。貴方がいない間に私が朽ちてしまうのならばせめて貴方が居る場所で死にたいのです。

七瀬がなぜ己の正体尾知っているのかなんてそのような事は最早どうでもよかった。乞われた無惨は震えた手を押さえながら彼女の頬に手を優しく添えた。出会った当初は雪のような綺麗な肌であったが今や七瀬の肌は、それは、かつての己を見ているようであった。彼女はくすぐったそうに無惨と己の名前を呼んだ。諭すように、その声はまるで己の死を受け入れているようであった。七瀬を抱きしめる。そして無惨は七瀬の首筋に歯を立てていった。ツプリ。決して全てを無駄にしないように、愛する七瀬が痛みで狂わないように無惨は丁寧に食べていく。その間も七瀬は優しく無惨の背中を叩き続けていた。暖かい彼女がだんだん冷たくなっていく。いつの間にか彼女は無惨の背中を叩くことはやめ、力なく手を落としていた。

途中何度か鬼になってからこみ上げてこなかった嗚咽が無惨を襲うもそれでも無惨が七瀬を食う事をやめることはなかった。咀嚼音だけが部屋に響き渡る。丁寧に、そして血を一滴すら残すことなく。やがて己の味方である夜は過ぎ去っており、太陽が日の光が己の行いを責めるかのようにジリジリと己の肌を焼いていた。無惨は日陰に己の身体を動かす。

無惨は己の手を胸に当てて目を閉じると、とくりとくりと鬼となってもぎこちなく動いていた無惨の心臓に七瀬の心臓が寄り添うかのように動き出していた。何故かは知らぬが彼女の脳みそは消化されずに無惨の中で有り続けた。
怖くはありませんよ。かつて己に投げかけた彼女の言葉を思い出し、無惨は屋敷をあとにする。父親も母親も役立たずどもを食べ、無人となったこの屋敷に思うものなど何一つない。無惨は己の目的、七瀬を探すために、七瀬と生きるために京を後にした。


鬼舞辻無惨の心臓がふたつになった。しかし愛したものは死んでしまった。