真夏の予感




雨足の影に隠れて喉を震わせていた蛙もいつの間にかどこかへ消え失せ、カラカラとし灼熱した太陽の下で夏だ!羽化だ!命を燃やせ!と熱い恋を求め、我先に恋人を作ろうと奮起するミンミンゼミが鳴き始めた夏の日のことである。因みに学生のの間では期末試験がちょうど終わり、地獄から開放され夏休みが近づいて来た日でもあった。そんな日に玲はある光景を目の当たりにしていた。


それは無惨が怒っている光景である。


いや、うん……知ってる。知ってはいるが玲には怒っている理由がてんで検討がつかなかった。本当にどうして怒っているのだろう。病み上がりの玲はケホリと咳き込みながら考えるもあまりちゃんとした理由は思い浮かばず。まぁ、しかし機嫌と言うものは他人に取ってもらうというものでもないし、きっとなにか自分の中で折り合いが付けられらない事を無惨は今必死に理解しようとしているのだろう、そう玲は心の中で決めつけ、無惨のことはそっとしておくことにした。本当はとても気になるが。


教室のドアを開けるとムワッと熱気が玲の顔にかかった。暑い。廊下にも冷房をつければいいのに。鞄を手に持ち吸い込まれていくかのように昇降口に向かう生徒とすれ違いながら玲階段を駆け上がる。玲はまだあの人はいるだろうか、居て欲しいなと思いながらポケットに忍ばせてある物をそっと撫でる。玲が教室を出て向かう先は1つ上の学年の教室であった。


「しのぶさん」
「あら、玲さん」


目的の教室に訪れた玲は室内一帯をぐるりと見渡し、お目当ての人物であった胡蝶しのぶを見つけ出す。しのぶに声をかけると、しのぶは笑顔を浮かべながら手招きをして教室に入れてくれた。本当にいい人である。そんなしのぶに玲は礼を言いながら神社で買った学業成就のおまもりを渡した。以前しのぶと大学生である甘露寺蜜璃と玲を入れて女子会ならぬお出かけに出かけたのでそのお礼であるし、受験間際に渡すと逆にプレッシャーになるかもしれないので今こういう形で渡してしまおうという意味合いも兼ねてはいる。玲の気遣いに気がついたのか定かではないが、しのぶは玲の頭を撫でながら、大事にさせていただきますねと喜色に満ちた表情を浮かべた。それからはこの前爆発した美術室にはもう行きましたか?だとか、冨岡先生に追いかけられた時の逃げ切る方法だとかそういった取り留めのない話に花を咲かせる。楽しい時ほど時間は意地悪をするかのように早くすぎてしまっていた。


「しかしこんなに玲さんの時間を取ってしまうと鬼舞辻くんに怒られそうですね」
「あぁ、その事なんですけどね……」


チラリと時計を見たしのぶに玲はさっきあったことを話す。無惨の機嫌が悪いこと、けれど此方にあたる素振りも見せないということ、知りたいが無遠慮に踏み込んでいいのか。機嫌が悪いと聞いて、心配そうな表情を浮かべていたしのぶは玲の話を聞いていくうちにどこかおかしくなったのかクスクスと笑いだした。なにが可笑しいのか分からない玲はしのぶの顔を見る。


「すみません、玲さんが可愛すぎて」
「えっ!?今の会話で何処が?むしろしのぶさんの方が可愛いです」
「褒めても何も出ませんよ、鬼舞辻くんが怒っている理由が知りたいですか?」

あぁ考えておきながらも無惨が怒っている理由が知りたかった玲は一拍もあけずに真面目な顔をしながら大きく頷いた。そんな真面目な顔をする玲をみてしのぶは再び愛おしさで笑いそうになったが何とか堪える。少しだけ玲をからかってやろうと思い、しのぶは私たちとお出かけしたからですよと落ち着いた優しい声を耳元に投げかければで言えば玲は口をパクパクとさせる。あら可愛い。

「えっそれって、あー……いや、嫉妬しいだなと思ってはいたんですけど」
「ふふふ、玲さんは可愛らしいですね」

狼狽える玲を見ながら本当に鬼舞辻くんには勿体ない、他の人にも紹介してあげたいぐらいです。そういったしのぶに玲は恥ずかしいのでと断りをいれる。実を言うと全然恥ずかしくはないが鬼殺隊のメンバーと関係を持ちすぎたら無惨との時間が無くなってしまうような気がするのだ。因みに玲が鬼殺隊との関係を持つことに無惨は何も言わない。言えないのかは分からない。玲は自分が無惨のものであり無惨は絶対に自分を手放さないという自信があるというように、無惨もまた玲は絶対に無惨の元から離れていかないものだと思っていると、そう玲は勝手に決めつけていたのだ。

しかし無惨が怒っている理由が分かってしまった今、玲は無惨を放っておくことは出来ない。

「……しのぶさん」
「えぇ、ぜひ行ってあげてください」

勿論、結果は教えてください。報告待ってますね。そう送り出してくれたしのぶに玲はありがとうございますとだけ感謝を告げて、自分の教室に向かって走り出した。

「無惨!」

玲は息を切らし、咳をしながら無惨に声をかける。夏の暑さをものともせず廊下を走ったせいか分からないが、喉に痰が絡まり少し掠れた声になる。えへんと咳払いをしても痰は取れてはくれない。その様子を見たのかは定かではないが、先程まであった不機嫌な雰囲気はどこかへ行って置いていってしまったのか無惨はどこか不安げにこちらを見ていた。一体何があったのか。一つ謎が解けたら謎が増えた。げに恐ろしきことである。けどそれでもまだ少し機嫌は悪いらしい。

「鬼狩りの元に行っていたのでは無いのか」
「いやまぁそうなんだけど、無惨の様子が気にって」
「私のことは捨ておけば良いだろう」

こちらにいても……そう言いかけたどこか寂しげ無惨に玲はそんなことは無いと返し、無惨の手に触れる。冷たい、いや本当に冷たすぎる。確かにこの席は冷房がよく当たる場所ではあるがこれはさすがに冷えすぎではないか。
席、移動しない?と玲が提案しても無惨は一向に自分の席から動こうともしない。もしかしたらこうして寒い中ずっと私のことを待ってくれていたのかもしれない。だからこんなに冷えきっているのか。そう考えると自分が無惨を暖めてやらねばならないと思い、玲はそっと無惨の手を温めようとして両手で覆った。

「……」
「……」

お互い無言の時間が続く。無惨はこちらを未だ不安げに伺っているし、玲は玲で初めての状況に戸惑っていた。でもちゃんと思いは伝えねば。そう思うと思うだけ何を言えばいいのか分からなくなり玲は何も言えなくなってしまっていた。まずはどこから話せばいいのだろうか。考えあぐねているそんな玲とは対照的に無惨は玲になされるがままだったが、玲の手の熱が無惨の手に熱が行き渡りだした頃、玲に覆われていた手をどうにか握り返し心細げに玲、と名前を呼んだ。


「どうしたの」
「玲、お前は……あの雨の日に私ではなく鬼狩りと出会っていた方が良いと思った時はあるか」
「ないよ。あの時出会えたのが無惨で良かったと思ってる」

あと私は無惨を置いてどこかには行かないよ。そう言われた無惨はどこか安堵したかのように玲にもたれかかった。玲はその無惨の重さが心地よく感じた。ずっとこうしていたい。もし両手が塞がれていなかったら迷うことなく玲は無惨の頭を撫でていた。


「……この前の約束のことだが」

夏休み、私と一緒にどこかへ行かないか。玲の身体にもたれたままの無惨にそう言われ玲は了承の声とともに大きく首を縦に振った。即答である。此方はなんでも言うことを聞くと言っていたのに対して、提案する素振りで言う無惨が酷く玲には愛おしく感じた。プールにでも行く?と玲が聞いたら少し詰まったような声で無惨は続ける。プールも行きたいらしい。

「……場所は私が考えておく」
「うん、楽しみしとくね」
「日程は決まり次第知らせる」
「分かった」
「……絶対に予定は開けておけ」
「はいはい」
「はいは1回だ」
「うん」


それも大事だけれど昔とは逆だね。昔は私が行きたいところを提案していたのに。と玲が思いついたようにいうと、少し無惨はきまりが悪そうな顔をした。図星であったようだ。可愛い。

冷房が効きすぎた教室の中で玲はそんな無惨を見ながら熱いねと言って無惨から手を離す。その手は汗をかいていたが、その汗はどちらかの汗かはわからない。

風鈴の音のように軽やかな真夏はすぐそばにまで来ている。




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