ふたり




朝でも夜でもけたたましく鳴いていた蝉も次の世代に命を託し、養分になることを望んで土に抱かれていった秋の季節。今では鈴虫やコオロギが夜を慰めるかのように己の羽をふるわせていた。

月夜に照らされた空は雲に隠れることなく星々を遊ばせている。そんな夜、鬼舞辻無惨は人気のない道を歩いていた。今は明治の世。ここ数年で世の中はまるで花のように移り変わっていた。世の中では火力発電所ができたやらできなかったやら。数年前まであったものが消えている。数年前になかったものが存在している。あの女と出会った店はあの女が死んでから数年後に違う店になっていた。

気づいているのかいないのか、定かではないが時は過去のものを置いていく。

置いて行かれたものは足を止め、仕方がないと肩をすくめるかのように自らの身体を崩壊させ跡形もなく消え去っていくのだ。それは時として人の記憶からまでも。
あの女のことを覚えているのはもういないのであろう。この辺りもすっかり変わってしまった。可能性は無に等しいが、もしかすると覚えている者もいるのかもしれない。しかし無惨は別にあの女のことを話したいわけでも、あの女の存在を己のものだけにしたいわけでもなかった。ただ、あの女のことを覚えている者がいてくれればよいと思っただけである。なぜそんなことを思ったのかは己でもわからぬことである。己らしくない。

とある洋館にたどりつくと無惨は歩みを止め二階の窓を眺めた。その洋館はかつてあの女が住んでいた家である。一年前か五年前か十年前か、二階から己の存在に気が付いたあの女は手を振った後、自分を出迎えてくれたが今この洋館には誰も住んではいない。あの女が死んだあの日、燃やしてすべて無くそうとした後、己の手の中に土地だけが残った後、どうしても女のことが忘れることができずにもう一度そっくりな洋館を建て直した。女の愛用していた陶器や家具など似たようなものをそろえたがどれも少ししっくりこない。

しっくりこないが、その違和感も時を重ねるごとに初めからこうであったのだと無惨にいつも言い聞かせてくる。違うと無惨がポツり呟いても、その言葉は真っ暗な部屋の中に消えていった。女の部屋が存在していた二階に上がろうと階段に己の足を踏み込むと階段は誰かに踏まれるのを待っていたのかのようにギシりと音を立てた。その音にひどく懐かしさを覚えた。確かこの音を聞いて女はどうやったら直るのかとか言っていた気がする。最終的にはめんどくさくなったのか他にやるべきことができたのかその悩みはどこかに飛ばしていた気もするが、いや、最終的には直していた気もする。無惨は女の部屋に入り、いつも寝ていたベットに腰を下ろす。ここはかつて女が生きることを奪われた場所。瞼を閉じればすぐにあの日の光景が思い出す。赤い彼岸花のように真っ赤に咲いた血の花々が女を取り囲むようにして咲いており、彼女は月明かりに照らされていた。


「……玲」


彼女の名前を呼び無惨は瞼を閉じた。私と顔が似ていた玲は私とは似ていなかった。誰もいない一室であの女の、玲の暖かさや在りし日の彼女の姿を探ろうとするも彼女はすでに無惨のことを忘れ、三途の川を渡って黄泉の国にたどり着いていることだろう。

鬼舞辻無惨は天国という場所も地獄という場所も信じてはいないが、玲ならたどり着いているはずである。無惨はひどく重いため息をついた後に重い瞼を開けた。キラキラと己を慰めるような月明かりに煩わしさを感じて、空に浮かぶ月を睨みつけようとしたとき、月明かりに照らされた己の手にあの女が手を重ねてこちらに笑いかけているような気がした。


「──、……馬鹿らしい」


弱々しくそのような言葉を吐き捨て、無惨はカーテンを閉じ部屋を後にする。忘れてなければまたここに来年も来ることになるだろう。その根拠は無惨にもわからない。わからないがきっと己はそうせざる得ないのである。


──むざん。


軋む階段を降りて屋敷から出ようとしたとき、己は玲に声をかけられた気がする。思わず振り返るもここには、もう、誰もいない。誰もいないのだ。あの日取りこぼしてしまった彼女はすでにここにはいない。それは当たり前のことだと言い聞かせ、鍵をかけて屋敷を後にした。

再び歩き出した無惨に寄り添うかのごとく胸ポケットに入れた簪が朧げに輝きを上げた。





──鬼狩りに敗れた。


炭治郎を鬼の王に仕立て上げ、己の意志を継がせることにも失敗した。自然の摂理は今まで抗っていたそんな無惨に無情にも死という絶対的なものを与えたのである。死後、無惨は暗い闇の中をさまよっていた。歩いても歩いても闇の中である。深淵すら見つからぬ。

無惨は己がこのような目にあっているのにも関わず、さも興味のないような顔をしながら暗闇の中を歩き続ける。なぜここを歩いているのだとかそんなことは考えもつかなかった。事実、興味がないのだから。無惨の傍に誰もいないことは千年生きた中の無惨にとっての常であるが故に疑問すら抱けなかった。

鬼舞辻無惨を待っているものなぞいやしない。鬼舞辻無惨はいつもひとりであった。三途の川を渡るための六文銭など持ち合わせてやいない。めんどうだと思い始めた時、何もない場所で雨が降り出した。打ち付けるような強い雨である。

今の無惨は傘すら持ち合わせてもいない。医者を殺めた日に着ていたような衣服が雨によって濡れていく。濡れたところで別段困ることもないので無惨は一歩、また一歩と歩き続けた。足が濡れても、髪が濡れても歩き続ける。水は無惨にまとわり始め、すべてが億劫になり出したその時、女に声をかけられた。

その声はひどく懐かしい声である。無惨は思わず目を見開き、振り返ると先ほどまでいなかった場所に玲が立っていた。彼女は死ぬ前のやせ細った姿ではなく、己と出会った時の姿をしており、無惨に対して心配の表情を浮かべていた。呆然と立ち尽くす無惨に玲は傘を持つように言いながら自分の傘の元に招き入れ、玲は寒いでしょうと己が羽織っていた羽織を無惨に掛け、持っていたハンカチで無惨の髪を拭き始める。なぜ、此処に、玲がいるのだ。玲は数十年も前に死んだはずでは、と、先ほどまで動かさなかった頭が情報を得たことで動き始めていく。どうしてと無惨が玲に視線を向けると玲は待ってた、と短く答えを返す。


「来るかどうかもわからぬ相手を待ち続けたのか」
「そう言われればそうだね、私は来るかどうかもわからない無惨を待ち続けてた。……ねぇ、来るの早すぎるよ」
「……すまない」

合流した玲と無惨はともに歩き始めた。暗い闇の中、目的なんぞあるわけもなく、ただただ一本の道筋に誘われるかのように。玲と無惨は道中、話に花を咲かせながらただただ歩いていく。何分か何時間か何日か何時間経過したかもわからない中二人は歩き続けた。やがて雨は止み、一陣の風が吹き荒れたと思うと遠くに光が見えてきた。とてもまぶしい光である。
その光の行先は無惨にも玲にもわからない。もしかしたら地獄なのかもしれない。玲は無惨を安心させるかのように無惨に笑いかける。


「一緒にいこう」


返答こそはしなかったものの無惨は玲のその言葉に肯定するかのように頷き、固く玲の手を握りしめた。この手を離すことはもう二度とないだろう。もしこの先が地獄だとしてもきっと玲と一緒ならば気にもならないであろう。

ともに歩み出した二つの影は光に照らされて跡形もなく消え去った。