火炎花




ミンミンとしか鳴けないような行き遅れの蝉達の喧騒の中にツクツクという声が聞こえてくる幾ばくか経った或る大正の夏の日の夜のことである。

その日、鬼舞辻無惨は彼岸花を携えある家を訪れていた。その家の庭の花壇は荒れ果てており、つるが伸びきった朝顔が顔を閉じている。無惨が錆びていない鍵穴に鍵を差し込むと、家は帰る人を待っていたかのようにドアが開き無惨を招き入れた。それに応えるかのように無惨は家に入り、目的の部屋にまで歩を進める。
そうして部屋にたどり着いた無惨は仏壇の前に座り、線香を立て鐘を鳴らし手を合わせた。
神も仏も無惨は信じてはいない。いないがこの手合せは目の前の女のためだと自己完結し、黙ってその瞼を下ろした。
もしこの場に無惨を知る人物がいたのならば彼の行動を見て発狂していただろう。しかしここには無惨しかいなかった。ここのかつての家主であった女も既に生きてはいまい。

白檀の匂いを放つ線香が無惨を慰めるのがさも当然だと言うように部屋一面に香りを広がっていくが、この匂いは女が居なくなった時から香るものであるので無惨はあまりこの匂いを好いてはいない。
好いてはいないが女のためだと思うとせねばならなかった。もし……もしすぐそこの戸口から女がひょいと出てきて無惨に、そんなめんどくさいことしなくていいよ、と、言われたら無惨はこの一連の行為をやめるかもしれない。あの女ならそう言ってくれるのだろうか。


無惨は千年という長い年月の中からあの女との思い出を探る。
──探らずともあの女との思い出は忘れられることもないのだが。


あの女との出会ったのはいつの頃であろうか、あれもまた夏の終わりの頃だった気がする。





あの日は珍しく雨が降っていた。くせっ毛には嫌な天気である。
その上、雨が降っているのにもかかわらず湿気の多い日でもあった。太陽が出ていないあいだは日中でも外出が叶うので無惨は珍しく街に繰り出していたのだが、まさか鬼の始祖ともあろう者が見知らぬ人間に傘を盗まれるとは思ってもみなかった。すこし苛立ちを顔に見せたあと、さてどうしたものかと思案し他人の傘を盗もうかなどと考えていた時、あの女に声をかけられたのだ。


「もし。そこのお兄さん。顔が似ている、もしや血を分けた兄弟では?」
「そうですか」


無惨は興味なさげに適当に変なやつに絡まれたと思いながら女をあしらった。殺すにもここは人通りが多く、まだ夜でもない。めんどくさい。
こちらは今、腹の居所が頗る悪いのだ。そんな無惨の雰囲気を感じ取ったのか目の前の女は傘で隠されていた顔を無惨に向けた。その顔は無惨と瓜二つの顔であった。本当に血を分けた兄弟なのではと錯覚するほどに。

しかし無惨は千年も生きた鬼であり人であった。もし兄弟なんて居たとしてもとっくのとうに死んでいるのだ。兄弟が居たかなんて忘れているし、そもそもそんな存在は無惨には興味がなかった。


「良ければ雨宿りしていかれますか?別に私は取って食べようとはしませんよ……少し話し相手になって頂きたいのです」
「ならば私はお前を食べてやろうか」


そう苛立ちを隠さずに言ってのけた無惨に女は楽しみにしているとカラカラと笑いながら無惨を屋敷に招いた。
月彦となど言った外面ではなく鬼舞辻無惨として女に関わってしまったと気づいたのはあとのことであったが、まぁ、そのような経緯で無惨と女はヘンテコな出会い方を果たし、その日から交流が続いている。

女との時間はとても有意義な時間であった。曰く長く外つ国にいたらしい。海外の知識を多くこさえており、将棋にチェスに囲碁までなんでも出来た。さすがに青い彼岸花の話は無く、代わりに青い薔薇の話をされた。


「──この時代の文学が本当に生で読めるなんて!」

ある時ホクホクとした趣で女がホトトギスを読んでいた。女は収集癖があるのか新聞やらそういったものは丁寧に保存されていた。昔、なぜそのようなものを集めているのか、と、無惨はそう女に聞いたことがあるが、なぜって後世の世じゃこういうものは価値が……と、いう訳の分からない返答を女から貰った。女は度々未来を知っているかのような振る舞いをしていた。


人と鬼。被食者と捕食者という関係であったが無惨は目の前の人物を食べることはしなかったし、女も無惨が鬼であるということを知りながらも無惨を屋敷に招いて団欒の時間を過ごした。同じ顔を持つ彼女を見ながら無惨はこういう生活もあるのかとただ漠然と考えていた。


しかしそれも長くは続かなかった。無惨と女との交流が五年を超えようとしていた矢先、女が大病を患ったのだ。訪れる度に痩せこけ、痛みを我慢しながら血を吐く女を無惨は甲斐甲斐しく看病をした。
サナトリウムには行かないのかとかつて一度女に問うたことがあったが、女はあんな場所行くぐらいだったらここで死ぬとのたまわった。死の掃き溜めに己を置く気にはならない、と。
女の色のよかった肌は今にも死にそうなくらいに青白くなり、無惨はかつての自分を見ているようだった。顔が同じなぶんそう思わざる得ない。


「……もう来ない方がいいよ」
「一体誰に指図をしている?」


私はお前を食うことを心待ちにしているのに、来ないとは私との約束を違えるつもりか?、と、無惨がそう言うと女は目を見開きクスリと笑いながらそれもそうだ、と、布団に伏せる。無惨はその布団を優しく叩いた。






ある時無惨は女に簪をやろうと決めた。異性に簪を送る意味なんて無惨はとっくのとうに理解していた。知った上での行動である。
あの自分と揃いの彼女の赤い目に生えるぐらいの、あれは、彼女は自分のものであると示すような簪を買い上げ無惨は家に向かった。もうじき女を手に入れることが出来ると無惨の心は浮き立っていた。やがて女の家を訪れると……、訪れると、いつもならば返事があるのにない。不穏な予感に襲われた無惨は急いで彼女が寝ている部屋に向かう。


「おい」


女が布団の上で座っていた。その様子に無惨はほっとする。先程まで寝ていたのか。調子はどうだ、腹は痛めてはいないか。とか、そんなに薄着だと身体に触るぞ、とか。そんなことを思いながら無惨は起きている女に手をかけると、女は力なくその場に伏した。顔から、まるで無機物のように。
女が体勢を変えたことで無惨の位置から見えなかった色が見えた。赤色である。布団に散った血液があの女の目の色に似ていた。女が死んだという事実が否が応でもストン無惨の中に落ちていく。無惨はどうにかして生き返らぬものかと女の身体を揺すろうとしてみたが、女は生き返らない。しかしその身体は生きているように暖かかった。布団の血も乾いてはいない所から見るに死んだのは今日の無惨がやってくるほんの少し前の言うことがわかった。


──簪なんぞ買わなければ女の死に目に立ち会えただろう。


一瞬ドくりとそのような考えが無惨の胸を蝕むも頭を横に振り、自分の行動はいつも間違っていないと言い聞かせる。


無惨はこの家を、女を、無惨以外の誰かに盗られたくは無かった。それは人間以外のネズミやたぬき延いては虫に対してもだ。何度か女を食べてしまおうかと考えては見たものの、思考と行動が一致せず一向に女に対して食欲が湧かなかった。まるで身体が女を食べたくないと拒否しているかのように。
どうすることも出来ず、無惨はこの家と共に女を葬ってやることにした。死後女に執着するなんて遅すぎるなと無惨は自嘲しながら女をちゃんと寝かせ、死化粧を施してやる。


なんとまぁ安らかな笑顔を浮かべ死んでいるのだろうか。


己と同じ顔がこんなにも安らかな眠りをしている。死ぬことなんて無惨は考えたこともなかったが、己にはこんな安らかな死は来ないだろう。そもそも無惨は日の光以外死なない。


無惨どうしようもなく女に対して不満の気持ちが湧いてくるもこの女の事になると怒りも直ぐに潮の引いていった。さて燃やそうとすると机の上に手紙が置いてあることに気づく。
それは何枚かの手紙に加えて何冊かの分厚い本が置いてあった。差出人には無惨の名前が書かれている。無惨はそれを回収し、女の唇に接吻を交わす。女の唇はまだ生暖かった。もう出来なくなるのだ。生前にしておけば良かった、と、思いながら無惨は息を大きく吸ってから油を部屋にばら撒き一つの灯りを床に落とした。


すると火は恋のように熱をあげこの部屋を包み込んだ。火は無惨を殺せない。病は無惨を殺せない。無惨を殺すことが出来るのは太陽だけである。女が火に包まれていく。共に太陽の下に出て街に繰り出そうとしていた彼女は夜に溶けたのだ。人が集まってくる気配を感じた無惨は琵琶の音と共に消えていった。




無惨は伏せていた目を開け仏壇にその目を向ける。仏壇の上には健康だった頃の女と無惨の写真が置かれていた。写真の向こうの女は幸せそうにわらっている。無惨はその写真の中の女の顔を撫でるとひっそりとつぶやく。同じ顔のくせに自分の顔よりもこの女の顔が一等美しく見えた。 



「もうすぐ」



無惨の指が彼女の髪を撫でる。



「もうすぐ、お前のことも忘れられる日が来る」



指は女の唇を伝う。あの時の感覚を忘れたことは無惨は一度もなかった。




「安らかに眠れ」



無惨の指が彼女の目を塞ぎ、写真立てをゆっくりと伏せる。夜の帳が開かれるのも近いと思い無惨は席を立つ。ここに来るのも今日で最後だ、明日は発見した産屋敷の元に向かい鬼狩り共を全滅させねばならない。
鬼狩りが消えた時、無惨は太陽を克服するだろう。永遠となるだろう。


無惨が指を鳴らすと先程飾った彼岸花がパチパチと音を立てながら爆ぜ初め、やがては一つの大きな熱となった。それは女の写真に熱を上げ、仏壇を燃やし、更には部屋にまで広がっていった。その様子を無惨はただただ見ていたが、そろそろ炎が自分にかかろうと言う時に部屋を出て家の庭に立つ。





──あの時と違うのは家に女がいないぐらいか。




ほう……っと、そう思いながら無惨はその場を離れる。いつも最後まで見ることは出来ないが、あの女も笑って許してくれるだろう。夜に溶けるようにして一人で死んでいった馬鹿な女。
無惨は己と同じ顔をしていて太陽の中を歩くあの女に羨ましさを抱いていた。しかし太陽の中に死んだのならばまだ手を離していたのになぜあいつは日の目を見ることなく死ぬことを望んだのか。その答えを無惨は持っているが、認めてしまうのが惜しくて自身の記憶の中の女の目から逸らすように家から去る。
情けない、と女は無惨を揶揄うだろうか、悪戯が成功した時に見せるあの子供のような屈託のない笑顔をこちらに向けながら。かつて存在していたはずの無惨と女の安らかな日々に思いを馳せ洋館に背を向けて歩き続ける。丁度人々が家が燃えていると気づき始めたのだろう、辺りが騒がしくなりはじめた。
この屋敷が何故燃えているのか、誰の持ち物だったのか。今集まっている人々の中でそれを知るものはいない。あの女の人生もすべて知る者は無惨を除いていないのだ。無惨とて全てを知っている訳ではない。


無惨は女の洋館に集る野次馬どもとすれ違う。あの炎は無惨と女のためのものであり決して人に見せるために放った火ではない、と、群衆に叫びたくなる気持ちをグッと堪えた。こんな時女が居たのならどんな言葉をかけてくれるのだろうか。



帰路につく無惨は胸ポケットを漁り簪を見る。あの時買った簪は今でも光を失わず無惨の手の中にあった。


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