すってんころりん




太陽が寝静まった或る夜のこと。フクロウは誰かに乞われるわけもなく、教えを授けようとしているのかホウホウと鳴き声を奏で、草木は太陽が寝静まったことを良いことに月を歓迎せんと身体を揺らし相談事をしている。揺れ動く木々の隙間から月明かりが夜の森を優しく照らす。過行く雲が時折その月の光を捕えようとするが、その輝きが捕らえられることなく月は依然と夜の空を照らし続けている。

──殊勝なことだ。

同じ空に浮かぶものでも太陽と月はこうも違うものなのか、と、鬼舞辻無惨は一人夜の森を歩く。太陽も傲慢に照り続けることなく、月のように空に浮かんでいればよいものを。そう吐き捨てるように無惨は草木を踏みながら道なき道を歩き続ける。

汚れたら目立ってしまいそうな真っ白いズボンに夜に紛れてしまいような背広を身に纏うこの姿は森には似合わぬ恰好である。なぜ自分がこのような姿でこのようなことをと悪態をつきかけるもそうも言ってられない事情が無惨にはあった。張り付くような湿り気、草木の吐息が辺り一帯に立ち込める。その青臭いまるで生命の匂いに不快さを覚えながら森の中を歩いていると無惨は開けた空間に出た。自然にできたものではなく、あからさまに人の手が加えられた場所である。折れた木、土足痕、何かに巻き込まれて死に絶えた畜生。そして木に入れられた刀瑕。この一帯を飾るに美しくもない、敢えて言葉にして表すのならば、そう。このどんくささ。

おまけに漂う血の匂いの中に彼女の物らしき匂いがあると、無惨は鬼と彼女の気配や匂いがある方へと歩みを進めた。混じり合った血の匂いは無惨をからかい続ける。しかし、そのからかいを物ともせず無惨はいつものように甘い血と弱い気配を辿る。鬼の気配が近づくにつれ、鬼狩りどもの死体の数も増えていった。幾多のカラスと鬼狩りの死体……。そのような惨状を視界の端に入れながら無惨は役に立つ鬼ではないかと感嘆を示す。ここまで鬼狩りどもを倒すことが出来るのならば、いずれ柱も来ることになるだろう。柱を倒すことができたのならば、さらなる血を分け与え十二鬼月に加えることも考える必要がある。近頃の下弦の質の悪さを思い出すとそれもありだと無惨は足を止めた。

先程まで漂っていた木々や土、そして安らかに流れゆく川に匂いが掻き消され、辺り一帯は血の匂いと皮膚の焼けた匂いが立ち込める。気配を探るよりも先に森の中では聞くことはない殴打音が森の中に響き渡った。予測不可能な事態にこれはいったいどういうことだと無惨は今すぐにでもその場に姿を現したかったが、鬼の始祖である己がそう軽々にも鬼の前にも鬼狩りの前にも姿を現すわけにもいかない。鬼がこちらを見た瞬間の態度を想像し無惨は眉をひそめた。しかし無惨が何もしないこの間にも殴打音は森の中に響き続ける。何をやっているのだといてもたってもいられなくなった無惨はおもむろに鬼の視界を覗くとその視界にはこちらを殴りつけようとする彼女の姿が写った。
まて、これは一体どういう状況なのだと未だに状況が把握できずにいる無惨の中で気持ちが早まろうとするも、その感情を抑え込み辺りを見渡すと鬼の視界にチラリと見えたのは放りだされた日輪刀。それを見た瞬間無惨はすべてを理解した。こいつは何度刀を放り出したら気が済むのだ。

無惨は鬼との視界の共有をやめ深いため息をつく。前回は振り回した刀をどこかへ飛ばした末に逃げ隠れ、その前には鬼の額に刺さった刀を鬼と共に抜こうと奮闘していた。今回は殴り合いとは……。彼女は必死に馬乗りになる鬼に対しあまり強くもない拳をぶつける。鬼は最初こそはニタりと下卑た笑いを浮かべていたが、偶然にも拳が目に入り思わずひるむ。その一瞬を突いて彼女は鬼から逃げ出し再び日輪刀を構え、トドメだと言わんばかりに鬼に向かって刀を振り下ろす。

今日は出る幕がないなと無惨がそう思ったその時、またも元気よく間抜けな彼女のあ、という間抜けの音と共に刀がすっぽ抜け無惨の足元めがけて地面に刺さる。このような刀の使い方は幼子でもしない。笑う鬼、狼狽える彼女にその様子を見ながら呆れる無惨。何故なのだ……なぜこのようなことになっているのだと無惨は鬼と彼女を睨みつける。この泥仕合、下手すれば朝までやっている可能性がある。わざわざ急いできた意味を無惨は忘れることにし、地面に刺さった日輪刀を引き抜いた。刃こぼれの間に木片が刺さっている。血が付着し、もはやこの刀鬼の首以外を切っている方が多いのではないだろうか。

この刀もない彼女が鬼に勝てるという見込みは最早ない。無惨は彼女を眺め、そして再度ため息をつきなぜ己はこのようなことをしているのだ、と無惨は鬼を消滅させた。鬼は無惨の手によって殺されるとは思っておらず叫ぶ間もなく死に絶えていく。意味もなく散っていった鬼。下らぬ理由で鬼を増やしたわけではない。このような手で死んでいく鬼が不憫でならないという思考にもなりかけそうになったが、いや、しかしこんな人間に勝てないのならば十二鬼月にも鬼にもなる資格はないのである。鬼をやめろ。道中に転がっている鬼狩りも彼女のドジで死んでいったのかもしれない。


「紬さん……?」
「あっ、月彦さん!」


思うことがあるものの、その思考を放棄し無惨は草むらをかき分け、彼女──紬に声をかける。突如鬼が死んだことによって驚いていた紬であったが、無惨の顔を見ると先ほどの鬼のことは綺麗すっぱり記憶の彼方へと消えていった。漠然と今回も運が良かったなと思う紬は怪我をした足を必死に動かしながら、無惨の元に駆け寄りお久しぶりですねと無惨に笑いかけた。その笑顔を見るとまぁ急いだのも悪くはなかったと内心思うことにした。この鬼の始祖、現金である。


「月彦さんまた迷ったんですか?」
「……えぇ、そのようです」


迷ってはいない、お前を追ってきたのだという言いたくなる気持ちをぐっと抑えながら無惨はよくわからない野犬のようなものに襲われ逃げているとこのようなところに来てしまった、という違和感しかない適当なことを言ってのける。普通の人間ならば信じやしないが紬はなぜか納得したかのような顔をしてなら私が守りますねと元気よく応える。違うそうではない。鬼と戦うこと以前に、人間を信じすぎではないか。よく今までそれで生き残ってこれたものだと、無惨は紬のその様子に一抹の不安を覚えた。現に我々と立ち向かうための唯一の武器である日輪刀をどこかへ失くす始末。それすらも忘れてはいやしないだろうか、と、無惨は木の枝のように拾った日輪刀を握る。


「そういえば紬さんはどうしてこのような場所に……?」
「それはですね」


無惨はそれとなく自身が持っている日輪刀の存在に気付かせようと素知らぬ顔をしながら彼女に問いかけると紬は声を裏返しながら私も野犬に襲われていてと答えだした。無惨はそのことに同情を示したふりをする。お互いに嘘をついているのだからお互い様である。同意を示す紬が無惨を見ながら唐突に叫び声をあげる。ようやく気が付いたのか。無惨は日輪刀を紬に返しながら愛想よく最近は元気にしていたのかだとか些細な取り留めもない話題に少し話を咲かせながらいつ彼女の目の前から姿を消そうかと考え始める。

この繋がりは誰にも知られてはいけない、産屋敷なんぞに知れてしまった日には彼女がどうなってしまうのか。虫のようにしぶとい鬼狩りどもは鬼を殺すためならば労力を厭わない。自らの手駒を潰してまで守っている彼女が撒き餌になってしまうのならば無限城に連れていくのもありだと考えたこともあったが、そういうことではないと無惨は己の矛盾を孕む思考に蓋をする。色々とめんどくさいことになるのは確かである。そろそろ消えるかと無惨が思ったその最中、紬が無惨の服の袖をつかんだ。


「どうかいたしましたか?」
「今日は一緒に帰りませんか……?」


いつも一緒に帰りたいのに月彦さんいつも気が付いたらどこかへ行ってるから……。今日は一緒に帰りましょ?、と顔を赤らめ朗らかに笑う紬に差し出された手を無惨は眺める。ボロボロの手。血や土が付着した紬の手。その手はどう見ても綺麗とはいいがたいが無惨にとってその手は綺麗な手である。ずっと見つめられているのに気が付いた紬は申し訳なさそうな顔をしながら手を引っ込めようとする。

その顔を望んでいたのではないと無惨はひっこめられた紬の手を握った。肉刺がたくさんできた手である。それは彼女の努力の跡でもあった。鬼すら倒せぬ鬼狩り、鬼狩りになれるほどの才能はあるはずなのに彼女にあるのはひたむきな努力のみである。どうしてこんな人間に惚れてしまったのかと無惨は頭を悩ませる。しかし、はにかむ紬の顔を見るとそれでもまぁ良いのかもしれない。すってんころりんと転びそうになる彼女を支え、このままでは夜が明けてしまいそうだと無惨は紬を抱き上げた。服が汚れようとお構いなしである。紬の困惑した声を聴きながら無惨は満足気に山を下り始める。

その様子見ながら月は嬉しそうに二人の道を照らし続けた。太陽も少しは気を利かせて今日だけは明けるのが遅いかもしれない。



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