「──知っているか、この噂」

時は桓武朝の時代だったかそれとも醍醐朝の時代だったか、はたまた白河朝の時代だったか。兎にも角にも京に咲くのが都の花。咲かせた時代は平安時代。誰かが流したかは知らないが、源氏物語が流布された時世にそぐわぬ天女の噂。
梅の香も手伝って、そんな噂が流れて行く。絹のような肌を纏い、翡翠をはめ込んだかのような美しい眼。夜をうつしたかのような艶やかな髪の毛。男たちはそんな姿を一目見ようと垣間見を行い、女達もその者の近くになることを願い、女房として出仕を夢に見る。人間が儚く淡い夢を見ている間に噂はたちまち大きくなっていくもその噂を否定するものは誰もいなかった。
──噂に真実なぞ無くても良い。むしろ無い方が尾ひれがついて揺蕩う金魚のごとくハラリとどこかひとりでに泳いでくれた方が映えるというもの。面白がってつけた尾ひれは泳ぐには十分すぎたようで、悠々自適に都を駆けていく。大きすぎて目立ったのかは定かでは無いが、魑魅魍魎すらその噂に興味を持ち始め最終的に噂を聞きつけたのは赤い双眸を有した一人の鬼であった。
しかし、しかし。人が知ろうが鬼が知ろうか等の本人からすると自身の婿候補が増えるだけである。噂を流した自身の親を横目に紬はため息をひっそりとついた。噂で酔う人間にそれを悪用する人間。なんともまぁ人間というものは滑稽なのであろうか。
天女と評されもう己の名前で呼ばれなくなった女である紬は女房が持ち寄った男達からの手紙の中から適当に手紙を抜き取った。

どうせ誰も天女にしか目が無いのである。



幾多の男が天女の元へ足を運び、袖を、枕を濡らしていった。百人はいたのであろうか、五十人はいたのであろうか。多いのかと聞かれたら後の世に三千人の女子供と関係を持った男が創作上と言えども出てくるのだ、多くはないだろう。では少ないと聞かれたら関係を持たずに死んでいくものもいるのだ、少なくはないだろう。天女の名に相応わしい人数と関係を持ち、選び、男どもは淘汰されて行く。そうして最後の一人となった男と関係を結び、軽やかに笑い、微笑みあった。
天女を愛した、といえば誠となるが紬を愛したのだと吐く男に冷ややかな視線を向けながら紬は今宵も抱かれる。この婚姻はとどのつまり両家のためでしかないのだ。源氏物語が流行り、藤原家が隆盛を見せたよりも昔に流行った物語の出で来はじめの祖である竹取物語の主人公であるかぐや姫はなんて羨ましいのだろうか。月の罪人であったかぐや姫は最後は月に帰れたのになぜ天女と評されている私は何処へも逃げられないのであろうか。

「おい、天女」
「……」

婚姻の儀式である三日夜餅が行われる前日のことである。見知らぬ男が紬の部屋を訪れていた。普段の女であるならば慌てふためいていたのであろうが、幾多の男が天女と評された紬の部屋に忍び込もうとしたのだ。この男もその類であろう。そう考えに至った紬は少し黙ったあとに天女ではございませんとツンとしたつれない態度を取ると唐突に見知らぬ声の主はカラカラと笑いながら紬に謝りをいれた。

「京から遠い地にいた私の耳にもお前の噂は届いている」
「左様でございますか」

紅い双眸が紬を貫き続ける。御簾越しであるのに不思議と見透かされている気がして少し居心地が悪く部屋の奥に行ってしまおうかとなんて考えていると男がどこか芝居掛かった口調で紬に声をかけた。

「しかし、しかしだ。もったいがない」
「はぁ」
「なぜ伴氏の嫡男を娶るのかが理解できぬ」

その美貌ならば天皇でさえも魅了できたはずであろう?三日夜餅なぞ拒んでしまえと無責任なことをいう男に紬は両家のためですので、と、紬が答えると、目の前男は納得などしていない様子で手に持っていた扇子を口元に当てる仕草をし、ポツリと呟いた。

「……私が気に食わぬのだ」

私をかつて愚弄した伴氏のものが天女を手にすることが気にくわぬ。自分のための発言ではなく自分本位の言葉を綴る男に紬はプッと笑いをこぼした。何がおかしいのだと男が紬に問うと紬は笑いながら割くほどよりも軽い口を開く。

「私に好かれようとはせずに貴方がそんなに自分本位なことをおっしゃるから」
「当たり前だ、あの伴氏の孫だろう。私の部屋を通るたびにいつ死ぬのかと声高らかにのたまったあの女の孫であろう」
「……孫?」

そんなにお歳を召していらっしゃらないのに面白い冗談を言うのですねと紬が続けると、男は私が嘘をつくことは無いとのたまう。それがまたおかしくて紬は声を出して笑い出した。

「貴方みたいな方でしたら私に婿になってくださっても良かったのに」
「あの時貴様は眼中になかった」
「手厳しい方ね」

事実だからな、この場で嘘をついたところとて私に益が無い。と言いながら男は御簾には手をかけずにパチンと扇子を閉じて紬から遠ざかり始める。慌てて男に名前を聞けば少しの沈黙の後男は七つの音を放ち、琵琶の音とともにその場から煙のようにふわりと消えていった。紬は今日の出来事を胸に秘めながら床についたのであった。




結果だけを述べると三日夜餅は失敗した。紬が拒んだわけではない、男が来なかったわけではない。男が来れなくなってしまったのだ。雨が降ったから来なかったのかといえばそうではない。
あの日季節に見合ったかのような雨が降ってはいたが男は紬の元に向かってはいたのだ。その道中で何者かに殺され、雨とともに洗い流された身体は血が抜かれていたらしい。不吉なと叫ぶ前に男達は色めき立った。天女の婿になれる機会が巡ってきたのだ。婚姻直前に先立たれた哀れな女。そんな尾ひれがついた噂は人々をまた魅了していった。
しかし嬉々として天女に触れたものは皆、血を抜かれて死んだ。紬と婚約したものは三日夜餅の三日目の夜に血を抜かれて死ぬ。出かけぬのであれば良いのではないかと三日目に出かけなかった男もいたが結果は火を見るよりも明らかである。
新しい噂がまた人々の間で作り出された。天女と関わったら血を抜かれて死ぬ、と。まぁその噂で済めばよかったのだが、噂に真実は必要ではない、と誰かが言った通り噂は奇天烈で現実味のない話の方が良く大衆の口も噂も回りやすいのだ。周りに回った噂は天女を陥れる噂となった。


──曰く、天女は鬼であると。


都に住まうは噂と踊った愚かな大衆と噂に犯された天女が一人。かつては引く手あまたであった縁談も今では閑古鳥がないている。天女から鬼に堕とされた紬に居場所はなく、仕える女房すらいなくなった。娘を天女と囃し立て噂をばらまいた紬の親ですら紬の元を訪れるのをやめ、あんたが悪い、いやいやお前が悪いと人目を憚ることもなく喧嘩を始める日々。
そんな世に辟易した紬は時の天皇が出家したという話を耳にし、自分の居場所を見つけるかのように髪を肩の長さまで切り落とし、誰かに見つかることなくひっそりと家を出た。
噂が悪さをしていない場所を求めて夜の山を歩き出す。梟が不気味に鳴いてはいたがその鳴き声は紬の心を慰めていた。
かつて自分は天女と噂されてはいたがあの頃は自由になれる羽衣がなかった。それが今は羽衣を取り返した天女のように自分があるべき場所を目指して歩いている。なんて気分の良いことなのだろうか。紬はそんなことを考えながら冬の山を乗り越えていく。寒さなんてなんてことはない。気味の悪い梟の鳴き声であろうと自らを害する者たちの声よりマシであった。
しかし順調なのも続かず、一つ目の山を越え二つ目の山を越えている途中になにかが紬を襲った。





息が荒い。もう歩けない。どうしてこんなことに。後悔が先に立ってしまってはそれは後悔とは言わず、後悔というものは後にたつから後悔というもので。
破れた着物に切られた足を引きずりながらも茂みに隠れた紬は声を押し殺しながらハラハラと泣き始める。私が天女だからダメなのか、私が鬼だからこんな目に遭っているのか。他人に流されて生きていたのをどうにかしようと始めて選んだ出家の道ですら許されないのか。
紬は自分を探す得体の知れない存在に怯え、使い物にならなくなった足でどうにか歩こうとするも足を切られたのか立つことすらできなくなってしまっていた。
どこだ、ここか?といやらしく自らの居場所を探す存在が遠のいていくことに胸を撫で下ろす。暗くて足の具合がよく見えないがもう脅威が去ったのならばしょうがないが今日はここで時間が過ぎるのを待とうとした、その時、腕を掴まれた。
驚きと恐怖で声にならない悲鳴が山を木霊する。紬を捕まえた存在は見窄らしい服を纏い、目を血走らせ口からは涎を垂らしている人間であった。血がどうとか、うんぬんかんぬん紬の知識にはない話を暴漢は自慢げに語り始める。恐怖は時間を狂わせ、暴漢に掴まれている時間が先ほど歩いていた時間よりも長く感じる。死にたくない、いやだ、だれか。誰かに助けを求めるかのように悲鳴じみた助けを暴漢の目の前で発するも何も起こるはずもなく。二チャリ、と男が紬に笑いかけ掴んだ腕を口に運び、紬は思わず目をつぶった。

「──おい、貴様何をしている」
「ひっ」

あげた悲鳴は紬か暴漢か。紬の腕が食いちぎられることはなかった。が、今度は暴漢が震えながら自身に声をかけてきた男を見てひどく怯えた声を出している。再び男が冷ややかな眼差しを浮かべながら何をしていると声をかけると暴漢は紬の腕から手を離し一目散に逃げていく。暴漢の悲鳴とともに西瓜が割れたような音が夜の山に響いていった。

「大事はないか」
「鬼舞辻様……?」

暴漢が去った後、男は紬に優しく声をかける。声をかけられた紬はコクリと頷きながら、聞き覚えのある声の主にかつて告げられた名前を紬が発した。それ聴いた無惨はウットリと目を細め、己の名前を言い返す。下の名前で呼べ、ということなのだろうか。紬は言われた通りに無惨様と呼べば無惨は喜色を顔に浮かべながらひょいと紬を持ち上げた。

「ここは危険だ」

私の邸に戻るぞ、そう言いながら無惨は紬を自らの胸の中に閉じ込め、その顔に接吻を落とす。接吻をされた紬は一瞬惚けたものの、我に帰り私は尼寺に行かねばならぬのです、そう言いながら無惨の腕から出ようとする。無惨はそんな紬が腕から出られぬように固く抱きしめ、貴様が出家などせぬとも私が誰かに殺されることもない。私の元に嫁げば良いのだ、と優しく紬の背中をさすりあげた。本来ならば無惨のために突き放せばならないのだろう、しかしこの久方の肌の温もりが紬の心を溶かしていく。もう頼れるものも縋れるものも何もないのだ、なら、信じても良いのではないか。紬は無惨の背中に腕を回す。その反応に無惨は喜色を顔に浮かべた。
──やっと、やっと手に入れた。私に笑いかける可愛らしい顔、私の体を抱きしめるその細い腕、私の名を呼ぶその綺麗な声。全て、全てを手に入れた。たとえ紬を鬼にしても歩けることが出来ぬと言い聞かせ続けていれば己の足で歩くことはなかろうて。ぶらりと役に立たなくなった紬の足からは芳しい香りが流れ出る。
そう、思い出したくもないが都の男の血は不味かった。紬の血はどんな味がするのだろうか。無惨は羽衣をなくしただの女となった紬を抱き上げる。夜はしばらく開けることはないだろう、天上に存在する太陽は地に堕ちた天女の所在を示さず。膨らんだ桜の蕾は、踵を返した冬の凍てつく寒さに枯れ果てた。血のような真紅の目を有した鬼は春の訪れをよしとはしない。
ほら、お前は私の隣が似合う。