秋風




──風が澄み切っている。

この身体に打つ風がとても涼しく心地が良い。春のように暖かさを孕んでいるわけでもなく、夏のように熱波というわけでもない。夏で蓄えた熱を必死に逃そうとするかのようにカラととした乾燥した風が吹き続けるこの秋。春夏秋冬。四つの季節にはそれぞれ一長一短が存在するが、春香は風に関しては秋が一等好きな季節である。風と共に口から息をついた春香はふと空を見上げた。今宵は新月、月明かりに照らされることがないゆえに 狩りは困難を極めるはずであるのに、この身体はやけに夜目が利くようである。暗い森の中すらも駆けることができ、今こうして春香は射抜いた獲物を担ぎながら帰路についていた。

──これには珠世さんたちも喜んでくれるはずである。

冬に備えて蓄えだした獣は脂を蓄えており、とても栄養となるのだ。最近体調を崩しがちであった珠世さんもこれで元気になってくれるだろうか。帰るべき家が見えてきた。しかし、ドアが外に向かって外れており何か異変が起きていることに春香は気が付いた。おかしい。野党にあらあされたのかというぐらいにひどい有様であったが、野党が中からドアをけ破るという行為にいささかの疑問を生じ得ない。室内に入り、誰かいませんかと声を出すも反応はなかった。中を見渡すと部屋を照らすろうそくは倒れ、火は消えている。タンスも倒れており、戸棚に存在していた薬品たちはすべて床で混ざり合い、劇薬と化していた。

薬は金にもなるはずであるからして金目当ての犯行ではないのは明白である。ならば、いったい誰が何のために。そう思っていると家の外から野太い悲鳴が上がった。この声はご主人の声である。ご主人が危ないと急いで家を出て声の上がった方向へ向かうとそこに居たのは血にまみれた主人の姿であった。


「ご主人ッ!!」


春香が声を上げて傷口を確認するとまだ息があった。生きている、傷も致命傷に至るほどの傷はなく、どこか意図的に急所を外されているとも捉えられる。
なんてむごいことを。この時代にも快楽殺人鬼でもいるのかと冷静に分析しながら狩りを出かける前にいただいた傷薬と包帯をご主人に施していく。幸い意識があるようで、春香だと気が付いた主人は春香に事の顛末を伝えようと必死に口を動かしていた。


「むすこを、珠世を助けてくれ……」
「当然です、ご主人はここで休んでいてください」


ちなみにあなたを襲ったのは誰ですかと春香が主人を襲ったのかと問いただすと、主人は口を重くしながらもポツリと話し出した。しかし、その目には困惑の感情を孕んでおりなぜこんなことになったのか理解をしてはいないようであった。


「私を、襲ったのは、たまよだ……」





春香は珠世を追う道すがら今起こっている状況を整理していた。女が突如として現れ、長年珠世さんを悩ませていた病を治すといったらしい。そして治療を受けたそのすぐ後に珠世さんは狂暴となり、ご主人たちを襲いだしたという。命かながら息子と共に外に出たご主人は外から扉を抑えつけ、珠世さんを閉じ込めようとしたものの、彼女は扉を壊し襲い掛かってきたというのがとりあえずの話の流れである。ご主人が殺されなかったのはなぜか、そもそもなぜ珠世さんは狂暴になったのか。息子を襲いだしたのか、春香が現れたことにより先に子供を始末したほうがいいという考えに至ったのかは定かではないが、現に彼女は今自身の子供を襲おうとしていた。

とりあえず珠世さんを落ち着かせて子供を救わねば、子供は非力な存在である。春香の今の身体は力もあるし、何とかなるだろう。こちらに標的を取らせ、ひとまずご主人と子供を安全な場所へやるのが先決だ。珠世さんが向かった方向へ向かうと子供が必死に叫んでいる声が聞こえた。痛ましい声であると同時に親を信じてやまない愛された子供の声が聞こえる。しかし、本当に子供を襲っているのは珠世さんなのだろうか。人間は二本足で歩くというのに、彼女は四つん這いで畜生のように威嚇した姿勢で子供に迫り寄っていた。

唸り声をあげる珠世さんのその様子は、先ほどまで春香が対峙していた畜生よりもむごく、あれはどちらかというと鬼などという類に近い。平安時代に倒した鵺と比べるとなんてことはないのだが、如何せん珠世さんである。鵺とは違い珠世さんを待つ家族があるのだ、恩もあるのでやすやすと殺すだなんてことはできない。彼女が取り乱している可能性も考えてはいたが、あの様子では先ほどの女に何かされた可能性が高い。逃げた方向が山ではなく、野原の方向で助かったと思いながら春香は珠世と息子の間に矢を放った。

ひょうひょうと飛んできた矢に二人がこちらを見るも子供は何が起こったのかいまだに理解できずにおびえた表情を浮かべているものの、狂暴になった珠世は夜目も利くらしく、迷うことなく春香を襲い始める。こちらに来る珠世を矢で威嚇しながら春香は子供に聞こえるように大声を発した。

「私だ、渡良瀬春香だ!君は父上の元に戻ってほしい、簡単な処置は済ませてあるがこんな状況だ!なるべく二人は一緒に居たほうがいい!」
「春香さんは!?」
「私はとりあえず珠世さんを落ち着かせてから戻ってくるよ、大丈夫!夜明けまでには戻ってくるさ、その時にはみんなで朝餉の準備をしよう!」

そう春香は叫びながら珠世に向かって挑発するかのように矢をひょうひょうと奏でる。狂暴になってはいる上に身体能力が上がっているらしい、矢など簡単に避けられてしまった。あの場においてきた子供は賢いのでご主人も任せられるだろう、僧と決まればこの鬼ごっこどうしたものか。そう思いながら春香は走り出した。夢の中では痛みを感じないので可能な限り走り続ける、目指すは先ほどまでいた山である。





あれから何時間経過したのだろうか、春香は新月のせいでまともな時間の把握ができずにいた。いくら身体が丈夫と言えど、山の中での追いかけっこにも辛いものがある。春香は息を切らすこの身体を休めながら目の前の珠世を見ていた。彼女はあれだけ暴れておきながらも一向に息を上げる気配を見せない。無尽蔵な体力は一体どこからと再び矢を放つも春香の身体はとっくのとうに限界を迎えていた。腕がもはや上がらない、引くほどの力を残してはいなかった。不発に終わる矢を見て嘘だろうと呟いた。平安時代の頃に自分が死んだ原因が一瞬フラッシュバックしそうになるも、今、考えて、いいもの、では、ない。私が死ねば彼女は確実に主人と子供を襲いだすのであろう。それだけはなんとしてでも止めなければならない。そう思いながら春香はとがった歯をむき出しにして襲い掛かる珠世に向かって弓を咥えさせた。

これは女の力ではないだろう。そう叫びたくなる気持ちを抑えながら珠世さんに必死に説得を試みる。

大丈夫、私が死んでも彼らが無事になることだけを考えろ。珠世さん、そう叫んでも珠世は一心不乱に春香を襲い続ける。弓がミシミシと今にも折れそうな悲鳴を上げた。珠世さんはまだ人を襲ったとしても殺してもいない。私に対して涎を垂らしながらも食らってはいない、先ほど引っ掻かられたが所詮それまでである。春香は必死に説得を続けるためにご主人に与えた傷の事を伝えれば珠世の反応が鈍くなった。そうだ、珠世さんもこんなことをしたくてしているわけではない。珠世さん、珠世さんのおかげでまだあの二人は生きています。死んではいないです!そう春香が叫ぶと珠世さんは必死に泣きながらも春香に覆いかぶさり二人は山道に投げ出される。山道に投げ出された春香と珠世は勢いが余って山の斜面をごろごろと転がり続けた。枝が身体を突き刺しとても痛い。石が私の頭を打ち、気が遠くなりそうになる。しかしここで折れてはすべてがダメになる。もはやここはどこだかわからないが大丈夫。あと少しだと、一緒に帰りましょう珠世さんと春香は折れた弓ごと珠世を抱きしめた。勢いが止まったところでチラリとみるとここは崖。身体能力が異常なほどに向上している彼女であるならば耐えられるであろうが、それでもただの人間である春香にとってここから落ちればひとたまりもないことは明白である。これで爪を立てられたらこちらもお手上げであったが、春香の背中に添えられたのは子を撫でる母のような優しい手つきであった。


「春香さん……」
「珠世さん?」


気が付きましたかと優しく春香が珠世に問いかけると珠世は涙ぐみながらこくりと頷いた。良かった。そう思い春香は視界を揺らしながらも立ち上がる。申し訳ないような絶望したような顔を見せる珠世に春香は優しく笑いかけながら珠世さんを撫でた。

「珠世さんはとても強い方です、現に襲いたくないからご主人に致命的な傷を与えないようにしたのでしょう?お子さんだって無事です」
「……はい」

珠世の涙をぬぐい、さぁ帰りましょう!と春香が彼女を元気づけようとしたときに突如地面が揺れた。地震か?そう考える間もなく轟音と共に視界が落ちていく。地震が起きた拍子に丁度いた場所が崩れ始めたのある。マジかよ、春香は状況の把握ができずに困惑している珠世の服の裾を掴み、力いっぱいに投げ上げた。

これで珠世さんは死ぬことはないだろうと安心するも彼女は春香に向かって精いっぱい腕を伸ばし叫んでいた、その様子を見ながら春香は笑いながら目を閉じて大声を叫ぶ。私の事は忘れてくださいと。浮遊感に包まれ、春香は意識を手放した。平安の世のように意識がある中で惨たらしく殺されなくてよかったと思いながら。





ここは崖の下。先ほどの地震によって崩れた落石たちが折り重なっている。そこに一人の女が琵琶の音と共に闇の中から姿を現した。その女の顔は少し切迫した表情にあるような様子をしていたがこの新月の中、森の中、女の顔を確かめる術はない。

女は落石が落ちた場所に駆け寄り、何かを探すように岩を退かせ始めた。幸い血の匂いのおかげでどこに探しているモノが存在していることはわかっている。この血の匂いも数百年ぶりであった。春香、春香春香……うわごとのように女の口から出るその名前は先ほど崖から落ち、命を落とした人間の名前である。

岩を退かした末に見つけた人間だった肉塊をこの女である鬼舞辻無惨は抱きかかえた。顔はつぶされておりもはや判別がつかないが、先ほど珠世越しに見ていたこの人間の顔は数百年前の平安の時代に命を落とした春香の顔と似ていた。

無惨は春香だった肉塊を先ほどよりも強い力で抱きしめながら、どうしてこうなったのだとかすれた声をこぼした。

あのような場所に春香がいるなんて知っていれば、別の接触方法を考えて珠世をこちら側へ引きずり込んでいたはずであった。なぜ、と疑問が無惨の脳内を占めていく。どれだけ悔いても春香が還ってくることはないのである。死んだ人間は帰ってはこない。
無惨は春香だった肉塊を地面に掘って作った穴の中に放り込む。晒されて獣の餌になるよりかはこうしたほうがまだよいだろう。珠世も今回は取り込むのに失敗したが方法なんぞいくらでもあるのだ、

また会えるのならば今度こそは……秋風の声で掻き消される決意のごとく無惨は闇の中へと消えていった。


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