破魔弓




無惨の元を離れ、鵺討伐の隊長として駆り出されてから結構な日数が経過した。梅の香りに釣られ舞い上がっていた鶯の鳴き声は山の彼方に消えていき、今度は蛍が夏の短い闇夜を照らしている。

平成、令和の世において見たこともない蛍が行く先々で命を灯していたことに春香は感動を覚えるも、今は何か物事に感動を覚え下手くそな歌を詠んでいる暇もない。そもそも歌が思い浮かばない。わりなし。

ここに鵺がいなければ適当に猿の頭と狸の胴体、虎……はどこにいるのかすらわからないので、何か代わりになる畜生の手足、そして蛇の尾っぽでももって帰ればすむ話だろうと、そしてそれにだまされる右大臣や左大臣を無惨とともにせせら笑おうかなどと考えていたのに番狂わせがひどすぎる。


──蛍よりもいるわけがないと鼻で笑っていた架空の存在の鵺がまさかいたのだ。


どこの世界だよこの世界、と春香は叫びたい気持ちを抑えながら鵺を部下を従え追い続けていた。西に鵺が出たとなると西へ飛び、東に現れたとなると東に走り。宮中近辺に現れたとなると朝廷に近づかせまいと追い払い。

そして今日、ついに鵺を倒せる機会を得たのだ。あの首は男であっても女であっても落とすことは不可能だろう。刀ではなくて弓矢でよかったと思いつつも、いや、本当に弓矢で倒せるのか、という疑問を抱きつつ弓で鵺を追い払う者が後の世に出ることを思い出して不安をかき消していく。

私が諦めることを諦めろと心の中で復唱していく。これは自分もはやジャンプ系主人公になれるのではないだろうかとハルカは息巻く始末。しかし、慢心こそ命取りになるのだしっかりとしなければ。

闇夜を照らしてくれる蛍がいれど、何がいれど天候というものは人よりもいうことを聞かず質が悪い。もし祈祷によってお天道様が祈りを聞き入れ、雨が降る降らないがあるのならば、出陣する際に無理矢理目の前で加持祈祷を行った神主は偽物ということになるのだが、はたまた。

今はそんな神主がヤブだったかの話はさておき。雨に濡れた甲冑はひどく重く、汗拭いも雨によってもはや汗を吸っているのか雨を吸っているのか検討がつかぬ。
怪奇と悪天候というものはセットなのか、アンハッピーセットなのか、と突っ込みたくなるのを雨水と共に春香は飲み込んだ。引き連れた部下たちは先ほどの鵺の襲撃により傷を負っている。下手に死者を出すわけにもいかなかったので待機を命じてこの場にいるのは鵺と己のみであった。


──己と鵺との一騎打ち。それも己の方が圧倒的不利の中、生きて帰らねばならない。そのことを考え始めると心臓が生きて帰るぞと勇気づけるかのように脈打ちとても煩わしい。
春香はそんな己の緊張から、死への恐怖から逃れるために弓の弦を二、三度引き音を立てた。場に不釣り合いな音がこの場に鳴り響く。
魔除けの代わりかは知らないが妖や怪奇の類のものは皆この音をひどく嫌がる。その証拠に今まで部下たちを探していた鵺が春香の方向を睨みつけていた。
よくもその音を立ててくれたなと言わんばかりの殺気を振りまいている鵺の方向をめがけ弓をひゃうっと放つも、全て鵺には届かず地に落ちていくのみ。
距離が足りないのか力が足りないのか何にせよ鵺を倒すにはもう少し鵺に近づく必要がある。──しかし、しかし、それは己にできることなのであろうか。

雨さえ降っていなければもっと伸びたはずなのだがと考えてはみたものの実際は雨のせいではなく、私が男であればできたことなのではないだろうか。遠のいていく雨の音を必死に耳にかき集めながら春香は正気に戻った。己にできるできないかではなく、今この場に己しかいないのだ。
ここで鵺を討伐しない限り己が生き残る術はない。──頑張らねば。

汗か雨かはたまた涙か。そんなもの定かではないが目の前を濡らすものを拭って春香はまた弓を番える。もう矢も残りわずか。確実にタイミングを見計らわなければならない。

こちらを食い殺さんと大きく口を開いた鵺に向かって春香は矢を再び放った。





待てど暮らせど、読めど寝れど待ち人は無惨には来なかった。待ち人ではない変な薬を飲まして来た医者は鉈で殺してやったが。兎にも角にもこの無惨、彼奴から貰った本はすべて読み切ってしまいやることもなることも何もなく。季節はすでに晩夏を迎えているというのになぜやつは帰ってはこないのであろうか。
女房たちにせかされ歌を詠むのにも飽きた無惨は雨上がりの外を眺めていた。

それにしても遅すぎやしないだろうか。普段であればひょっこりと阿呆面をこさえて無惨くんと醜態をさらし、無惨の元に土産と称し見舞いに来るというのに。
無惨は布団から這い出て月を見やる。見事な弓を張ったような形をした月であった。

──弓か。無惨はため息をつきながら春香のことを思い出す。何をしても何を考えても最終的には春香に行き着くのだ。そういえば彼奴のことを思って読んだ歌というものはなかった。ならば読んでみるかと筆を執り一句こさえて見るとなかなかよいできである。間違えなく彼奴にこの歌は詠めないだろうと自信ありげに紙を月光に透かす。春香がここにいれば折り紙でもしようと言い出すのではないか、と無惨は一人でクスリと笑い、垂れてくる汗を拭った。

寝よう。そう思い無惨が布団に潜った時のことである。べちゃり、となにかが動いた音が部屋の中でこだました。無惨が何気なく後ろを振り返るとそこには、血に塗れた女が無惨の後ろに立っていた。桶をひっくり返したような血を浴びた女は無惨に向けて喜色を顔に浮かべていた。
ヒッと無惨の喉からあられもない声が無惨の意思関係なく漏れ出る。女は無惨のその様子を見て満足感を得たのか、浮かべていた笑みをさらに深くし無惨に近づいてきた。無惨は女が近づいてくる毎に2、3歩下がるも悲しきかな壁が無惨のことを好いているせいで壁と無惨の距離はだんだんと狭まっていく。もう逃げられない。
無惨は観念して女の顔を注視する。そこにいたのは、


「むーざーんくん、おひさ!」


鵺をやっつけたこの私、無事かえって参りました!さみしくなかった?と茶目っ気たっぷりに片目をつぶった春香であった。
あっけにとられる無惨に春香は私がいなくてさみしかったんだね、よしよしかわいがってやろうとのたまいながら無惨の頭をなでようとする。おい、おまえ、鏡を見ろ。
そう無惨が言うと春香は思い出したかのように無惨にあるものを渡してきた。ところどころ血で汚れている布である。汚い、というよりも話を聞け。そういっても春香は話を聞かずに勝手に話を進めていく。話を聞かないのであればやることは一つである。無惨は手渡された布をはぎ中身を見て絶句した。


「あっそれ見たの無惨」


綺麗に切れたか自信がないけど、鵺の首。食べる?そう言ってきた春香に無惨は細い腕で春香に鵺の首を投げつけた。こんなところにそんなものを持ち込むなと無惨が声を荒げると春香は声を上げて大笑い。それ明日天皇のところに持っていくんだからねと春香が言うも無惨はここに持ち込むほうが悪いのだと言い返しやんややんやの大騒ぎ。警備のものが来てもおかしくはないのに誰も部屋にやってくる様子はなく、夜通し二人は騒ぎ続けた。


「じゃあ無惨、また会おうね」
「会えるものなら会ってやろう」


上から目線過ぎない?と春香が笑うと無惨もつられて笑いだす。春香はこの前の歌のお礼にと小包を渡し、お礼は今度会ったときに返してほしいなと図々しく宣う春香に無惨はいいから早く迎えと素っ気なく春香を送り出す。

室内に漏れ出す朝日がまぶしい、無惨はそのまぶしさに目を細める。この何気ない日常が続くと思っていたのだ。鵺討伐から帰ってきたその数か月後に、春香が何者かに殺され鬼舞辻邸の前に放り出される前までは。


あれは、ちょうど、いつの頃だったのか。今ではもう覚えてはいない。


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