開幕




寒さが暖かさを嫌い足早にこの地を去ると、魚氷にのぼり始め、梅の香りに釣られてやってきた鶯が囀る春の日である。寒さの中にも暖かさを求めているのか、はたまた意固地になってこの地を離れたくないのかは定かでは無いがまだ少しだけ薄寒い。
蹴鞠を蹴り合う誰かの歓談の声を余所に渡良瀬 春香はとある家をめざし歩を進めていた。道中に寒さを嫌い、土に潜り込まんとする人だったものを見るとその足は自然と早くなった。人の死体というものはこの世に来てから全然慣れやしない。和泉式部日記だったか、紫式部日記だったか別の物語が忘れてしまったがかつての皇太子が死体を物ともせずに女遊びに明け暮れた結果病を患いこの世を去ったことを思い出した。うぇ、気持ちが悪い。
土とともになりつつあるその体は解け、羽虫が這っている。埋めてやったり、燃やしてやったりしてやりたいがこの考えや思考はこの古き良き時代である平安時代にはそぐわない価値観である。昔飼っていた動物とか埋めたのを春香は思い出した。まぁ、ここに長居をして要らぬ病気をもらってしまってこれから会いに行くやつに伝染すのも憚られる。アイツはこんなことをしなくてもいつも体調を崩すのに。全く持ってアイツの身体が弱いのかこの時代の衛生が酷すぎるのかはわからない。手土産喜んでくれるといいんだけれど。そう思いながら手に入れた数々の土産の品を春香は見やった。今回こだわったのは食である。いつもは唐の珍しい骨董品だったりするのだが、やはり身体が弱いのならば食べ物を食わせてやらねばと春香の老婆心が働いた結果である。
春香は屋敷の門をくぐり、御目当ての人物の部屋に足を踏み入れ、大きく息を吸い上げる。本に夢中になっている波打つ黒髪を好きにさせている男は未だに春香に気がついてはいまい。


「むーざーんくーん!」


遊びにきたよ!そう春香が叫べば無惨と声をかけられた男は肩を大きく揺らす。驚かせてしまったかな?そう心配して無惨の顔を覗き込もうとした春香に無惨は読んでいた本を春香の顔にぶつけた。クリティカルヒット。これは痛い、痛すぎる。


「姦しい、来てやったことは褒めてはやるが時間を考えろ」
「うん!夜だね」


でも、私が来るって予想していたから君はこんな時間まで起きていたんだろう?このこの、と無惨にちょっかいを出せば無惨はため息をついて春香の鳩尾に拳をいれた。これまた痛い。不意の痛みで春香の目尻に涙が浮かび、その様子を見ていた無惨の口元が弧を描く。んまっ、悪いこ!と春香が叫ぶと静かにしろ、人が来ると無惨に怒られてしまった。それは申し訳ない。


「して何しに来た」
「ん、無惨くんが私に会いたがってるかなって思ってやってきたの」
「その口を今すぐ黙らせてやろうか」


ムニっと春香の頬を摘み上げた無惨に、春香はされるがままである。
いやだってほら、全然痛くないし。と無惨にヘラヘラとした笑みを浮かべていると、無惨は何を思ったのか春香から手を離し、春香の服で自らの手を拭いた。まってそれ悲しい。と嘘泣きを始めようとしたが、いかんせん話が進まないことに気づいたので茶化すように無惨に声をかけ始めた。


「無惨君、君は土産を所望しているのではないのかーい?」
「その口調をやめろ、不快だ」
「甘葛煎持ってきたのに要らぬと申すのか」
「……いるに決まっている」
「はいどうぞ」


甘くて美味しいよ、枇杷子も持ってきたから食べてね。むぎ縄もあるけど、お腹壊している時に食べたらダメだから体調が良くなってから食べてね。と背中を摩ってやればなんて冷たい。あまりの冷たさに春香は自ら羽織っていた羽織を一枚無惨にかける。ないよりはマシだろう。


「お前は食べないのか」
「人が食べてるのを見るのが好きだから」


早く元気になって一緒に遊びに出かけよう、藤山なんでどうかな?といえば無惨は虫が群がる藤山なんぞ見て何が楽しいものかと春香の提案を蹴り上げた。手厳しい。じゃあどこがいいんだと聞けば、どこへ行くかはさておき貴様のように弓を引いてみたいと無惨は言ってのける。春香は自分の弓の腕が唯一の友人である無惨に認められたきがしてとても嬉しかった。春香は春香でじゃあ今度無惨の得意な和歌を教えてよと返答をする。


「和歌がとてもよかったら神仏が感動して詠み手に幸せを呼んでくれるらしいよ」
「そういうものなのか」
「まぁ、そういうものなんじゃない?」


私は歌が下手だからね!といえば、たしかにお前の和歌は素晴しさを吟じているものではなく、終わりを笑っているような情趣を感じない歌だなと返される。なぜそんなにことになるんだろうね、と発すれば無惨はさあなと返した。こればかりは謎であった。


「まぁ私の場合歌が詠めようと、私の弓に左右がなくても人々は私を認めようとはしないと思うよ」
「貴様ほど弓の腕に長けたものはおらぬのにな」


高々性別なんぞで力を決めつけることなんて猿のやることではなかろうかとこぼす無惨を春香はなだめる。ここで無惨が怒ろうとも春香がどう足掻いてと女であることは変わりはない。小柄な体型、華奢な腕。とても剣を振るうにはもの足りず。ならばとこの時代になってくる前からやっていた得意な弓を手に取った。
引いた弓は百発百中ではあるが、それがさらに周りのやっかみを買ってしまったことを春香は知らないし今後知ることもないだろう。家の事情で男装をし、宮中に仕えているという話は公然の秘密なようなもので、いつも好奇な目は春香にまとわりついていた。無惨に出会わなければ春香はとっくのとうにこの世に見切りをつけていたのではないかと言わんばかりにそれはもう酷かったのだ。


「私は歌の才能がないからね」
「まぁ、そうよな。それで歌の才能でもあってみろ、私が貴様に嫉妬して噛み殺していたところだ」
「鬼でもないのにそんなこと無惨ができるわけないじゃないか、ほらもうよく噛んで食べてね。そのお菓子結構硬いんだから」
「ん……して、これだけが私のもとに訪れたわけではあるまい」


何ようで今日私のもとに訪れたのか申せよ、と無惨が問うと春香は思い出したというかのように、一つの手紙を見せた。


「ほぉ、恋文か?貴様に?」
「いやいや、天皇からの恋文とかあるわけないじゃないか。清水寺に行ったわけでもあるまいし」
「清水の地をそのようにいうやつは初めて見たが」
「坊主が盛っているだけでしょ、彼処」
「……しかし、いや、まて?天皇から手紙だと?」
「そう、で。私なんと今回鵺退治に行ってくるね」
「……はぁ?」
「いや、私も信じていないよ?だけど鵺を倒せば君の体調も天皇の体調も良くなるかもしれないから行ってくるね」


だからしばらく会えなくなるね、これを私だと思って待っていていて欲しい。不安要素はとりあえず潰していかないと!と自身ありげに宣った春香に無惨は目眩を覚えた。たしかに天皇は春香に甘いところがあった。弓の技能に場を盛り上げる才能は唯一無二であろう。
しかし、その才能が、春香が誰にも彼にも愛されているわけではないのだ。きっと春香の出世を危ぶんだ左大臣か右大臣が天皇を口車に乗せて春香を殺そうとしているのであろうと言うのに春香はそれに気付いてはいなかった。
ここで言ってしまってびびった春香が死んでしまうことになったら無惨は唯一無二の友を殺してしまうことになる。それだけは嫌だった。かと言ってこの依頼を断って太宰府なんぞに飛ばされるのも無惨は許せない。許せないが無惨は無力である。ただ、身体の弱い人間であった。友人が死んでしまうのにそれすら止められないだなんて。そんな無惨の心配が春香に伝わったかは定かではないが春香は無惨の手を握る。


「私はどこにも行かないよ、君の元に居ることを約束するしなんなら鵺の首でも取って帰ってくる」
「それは本当か? そのやくそくは絶対あるものなのだな?」
「うん、絶対だよ」


ならば歌を詠んでやろう。素晴らしい歌には神仏が加護を授けてくれるのだろう?と無惨が春香を見れば、彼女はもし救われるようなことがあればそれは無惨のおかげだね。と無惨を安心させるかのように笑いかけた。神は仏は存在するのか?そんなことは誰にもわからないが数日後に血を浴びた春香が鵺の首を携えて無惨の元に現れるのもそう遠くはないのである。さてはて、そんなこんなで始まるは椿説だったか珍説だったか。いやいや鬼説弓張月。これにて開幕である。







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【単語の解説コーナー】

魚氷にのぼる(うおひにのぼる):中国の暦を基とした七十二候の一つ。
旧暦2月14日から18日頃にあたる。
暖かくなるにつれ、河川や湖沼へ の氷がわれるようになり、その氷の割れ目から魚が跳ね上がる、の意(「絶滅寸前季語辞典」より引用)


左大臣(さだいじん):太政大臣の次に偉い人


右大臣(うだいじん):左大臣の次に偉い人

上記の2つと言うよりも平安時代辺りのある程度上の階級は、家柄がしっかりした人が就任しないと言いがかりをつけられて左遷されたり殺されたりしてしまう。(例:菅原道真(右大臣)の待遇を危ぶんだ藤原時平(左大臣)が菅原道真を大宰府に左遷されるように仕組むなどといった例)


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