世界から花が消えて数十年。突然変異を遂げた木々が大地を埋めつくし、人々は土の見えない木の根の上で暮らしていた。 リーシャが生まれた時には既に世界に花はなかった。母が幼い頃にはまだあったらしく母から花の話を聞いて花を知った。 『どうしてお花は消えてしまったの?』 『昔の人がね、花の精霊さまを殺してしまったのよ』 純粋な好奇心で問えば、母は忌々しそうに顔を歪めて言うのだ。 『愚かな人間どもが精霊さまを殺したの』 母は精霊を崇拝していたのだろう。 精霊信仰者は珍しくなかった。あまりいないけれど。様々な精霊がいて彼らは世界を守ってくれているらしい。 そんな母が数日前に病死した。病気を治すには花の咲く薬草が必須だったが、世界に花はない。なす統べなくリーシャは唯一の家族を失った。 「リーシャ、大丈夫かい?」 「はい。…………わたし、旅に出ようと思うの」 「旅に?」 花を探しに行きたい。 母が幸せそうに話す花を見てみたい。 リーシャは街のみんなの制止の声を聞かずにひとりで旅に出た。 * * * 街の木の根はなるべく平らに整備されていて歩くのに不便はなかったが、一歩街の外に出るとまったく人の手が加えられていない緑の世界が広がっていた。剥き出しの根っこに蹴躓きながらもリーシャは歩いていた。西へと。 「急がないと夜になっちゃう」 成長し続けた木々が太陽の光を遮り、昼でも薄暗いこの緑の中。夜は真っ暗で何も見えなくなることは容易に想像できた。 暗いのならば明かりを灯せばいいと火をつけて、もし木に燃え移ったりしたら取り返しのつかないことになりかねない。木々は複雑に絡み合っているから世界中を燃やし尽くすだろう。 * * * 半日以上歩き続けてやっと辿り着いた。リーシャは身心共に疲れきっていた。 「――西の森に大樹あり。其は世界の心臓。花の精霊、声を聞く」 母の日記の最後のページに書いてあった言葉の通り、西の森には大きな樹があった。 リーシャは見上げながらほぅと息を吐く。 「…………でかい」 疲れてふらふらな覚束ない足取りで近寄り、樹の根元にぺたりと座り込んだ。 ここに来て自分は何をしたかったのだろう。いや、母の日記の言葉に何か花の手掛かりがあると信じて来たのだ。 何か、何かあれば―― 「……? 風?」 ふわりふわりと服の裾が揺れている。どうやら下から風が吹いているようだ。 リーシャは疲弊した身体に鞭を打って樹の周りを探し回る。下に行けそうな穴があればいいのだけれど。 「あ、あった……」 樹から少し進んだ先に木の根がアーチのようになった入口があった。中は根が階段のようになっていて歩きやすそうだ。 思ったより大きな入口で助かった。狭かったら屈んで進まねばならないから今の体力では辛すぎる。 リーシャは期待を胸に奥に進んだ。 * * * 暗がりにも目が慣れた頃、根の階段が終わり地面が姿を表していた。ちょうど大樹の下あたりだ。 リーシャは生まれて初めて目にする地面という土に足を踏み入れていいものかと躊躇する。沈んだらどうしよう。 「おや、珍しい。お客さんだ」 リーシャが迷っていると奥から不思議な格好をした少年が出てきた。どこかの民族衣装だろうか。 少年はふんわり微笑んでリーシャの手を取り、奥へ誘う。 奥にはたくさんの白い小さな花が咲いていた。リーシャは驚いて少年を見た。 「あの、もしかして花の精霊さんですか!?」 「えっ、僕が?」 違うよ、と笑って否定した少年は自己紹介をする。 「僕はフラウ。……フラウ・クロツキ」 「わたしはリーシャ、ファミリーネームはないの」 フラウは少しだけ驚いた表情を見せてすぐに「やっと家に拘らなくなったんだ」と小さく呟いた。リーシャにはなんのことかわからなかった。いや、それどころではない。世界から消えたはずの花が目の前に広がっているのだ。 「この花は……?」 「これはね、花の精霊様が遺してくれた最後の花だよ」 フラウは哀しそうに目を伏せた。彼も花の精霊を崇拝していたのだろうか。 初めて見る花をリーシャはしゃがみこんでまじまじと見詰めた。触ったら散ってしまいそうな儚さを持つ白い花。 「太陽の光を必要としない花でね、周りの植物から栄養をもらって育つ不思議な花なんだ」 この世界から花が消えた原因は花の精霊が死んで植物の均衡が崩れたせいなのだと彼は言う。木が急成長を遂げ、大地に根をはる花たちの光合成を妨げた。故に花は枯れてしまった。 ここにある花は光合成をしないから木に覆われようと周りに植物がある限り、咲き続ける。 「わたし、花が見たくてここまで来たの」 「そう。……もう遅いから帰った方がいいよ」 「フラウは?」 「僕は此処に住んでるから」 「こんな暗いところに一人で!?」 「花たちがいるからひとりじゃないよ」 何も問題はないと言い切ったフラウにリーシャは面食らった。そんなリーシャをフラウは不思議そうに見詰める。 食事とかどうしてるんだろうと心配になったが彼は痩せ細っているわけでもないし、いたって健康そうだ。無駄な心配だった。本当に問題はなさそうだ。 リーシャはふらふらと視線を彷徨わせていたが、やがてフラウに視線を定めた。 「また来てもいいかな! は、花を見に!」 フラウは「気に入ったの?」と首を傾げて微笑む。その表情があまりにも綺麗でリーシャは戸惑いながらもこくこくと頷いた。 「いいよ、待ってる」 「ほんと!? じゃあ、約束!」 「うん。約束」 右手の小指を差し出せば、彼も同じ様に右手の小指を絡めてくれた。綺麗な微笑み付きで。 フラウは否定したけれど、リーシャにとっての花の精霊はフラウなのだ。花を慈しむ姿が幻想的で人とは違うなにかを感じたから。また否定されるだろうから言わないけれど、思うだけならいいよね。 ――わたしだけの花の精霊さん、なんて。 |