太陽を失った月 ――8月20日。 「久遠がいなくなった?」 魔界にそびえる魔王城の執務室にて魔王――樋口リュウ――は魔女の報告に驚いていた。 魔女は頷き、詳しい報告を続ける。 「森山久遠を最後に確認できているのは1週間前になります。 ……あの妖怪の猫の件以降は誰も彼を見ていません」 「冥界にいるんじゃないのか?」 妖怪の猫の件の際に久遠は由良と共に冥界に行ったはずだ。そこから帰っていないだけなのではないかとリュウは思った。しかしながら魔女は首を横に振る。 「それが、冥王由良は森山久遠のことをキレイに忘れてしまっているのです」 「……え」 それはつまり久遠が由良の記憶を抜き取ったということだろうか。 * * * ――8月13日。 冥界の冥王城の謁見の間にて、妖怪の主由良と森山久遠が対峙していた。久遠に抱えられている幼い少女は眠っている。由良の傍らには銀孤の灰流が立っている。 「さくらを冥界に引き渡す条件がある」 「安全なら保証する」 「それは本人を見て決めてくれて構わないよ」 守るに値するかどうか。彼女の安全より大事な条件とはなんだろうか。由良は面白いものでも見ているかのように笑う。 久遠はうっすらと笑みを浮かべ、告げた。 「森山久遠についての記憶を失ったフリをしてほしい」 冥王は不思議に思いながらも了承した。 * * * ――8月21日。 翠川来夢が魔王城の廊下を歩いていると桜色の髪の少女とぶつかった。 「わ、ごめんなさい。大丈夫?」 「あの! あなたは樹々さんを覚えていますか!?」 「え、音無?」 来夢が答えるとぱあっと表情が明るくなった少女は失くしていた宝物を見付けた子供のような輝いた瞳を来夢に向ける。 幼馴染みの一人がどうかしたのだろうか。 「さくら、何をしている」 「樹々さんを覚えている人がいました!」 「(消し忘れか? あの久遠が?)」 暗い紫のローブを纏った男は来夢を見て顔をしかめた。今日はリュウに客が来ると知らされていたが彼らのことだろうか。来夢は男に一礼してから見上げると、男は来夢の後ろを見て目を見開いていた。 「みぃーつけた」 * * * ――8月11日。 白百合病院の二階の病室へ木から侵入する。風にはためくカーテンの先に目的の人物、音無樹々がいた。 「最近、よく来るなぁ。そんなに俺に会いたいの?」 「にゃあ」 樹々はケラケラと笑いながらベッドから起きて手だけを駆使し、窓際に丸イスを滑らせる。 桜色の毛をした猫であるさくらは野良猫である。衛生面を考えて近付けないでいたことを聡い樹々はすぐに気付いてくれた。以来、こうやってイスを窓際に寄越してくれるようになった。 さくらは優雅にイスに降り立つ。前に来た時よりもまた彼が痩せている気がする。 「さくらはいつも久遠や羅々がいない時に来るよね……猫なのに人の言葉がわかってるみたいだし」 「にゃー(久遠さんに樹々さんに会ってることが知れたら殺されるかもしれませんから)」 人語を理解する賢い猫だと自負しているさくらは樹々の話を聞くのが楽しい。だけど、今日は少しだけ樹々に元気がないような気がしたから出直そうかと考えていた。 「俺は……」 「?」 「久遠にひどいことを頼んじゃったんだ」 ベッドに寝転んで手の甲を額に当てたままぽつりと消え入りそうな声で樹々は呟いた。 ひどいこと? さくらは小首を傾げる。 「俺が死んだら誰も悲しまないようにみんなから俺の記憶を消してほしいって」 言葉尻が震えていて泣いているのではないかとさくらは心配になった。さくらの目線では樹々の表情は窺えないが彼は笑っていた。自分自身を嘲笑っていた。 「…………」 「……謝らなきゃ、償わなきゃいけないのは俺なのにな」 なにもしてやれなかった、と悔しそうなのにどこか諦めてしまったように言う。そんなことないのに。 人語を理解出来ても伝える術を持たないさくらは何もできなかった。 * * * ――8月21日。 どんっ、という大きな爆発音が魔王城に響いた。 どうやら魔王城を襲撃する愚か者が現れたようだ。リュウは騒がしくなった魔王城の様子を窺いながら執務室を出ていく。目指すは襲撃地。森山久遠のもとへ。 「魔王様! ご無事ですか? ……どちらへ?」 廊下で魔術師と出くわした。彼は魔王本人が襲撃されたと思ったらしい。リュウは少しぎこちなく微笑んだ。 「襲撃地に行ってくる。 城の者には魔王が対処するから安心するよう、伝えてくれるかい?」 「は、はい」 魔術師は一礼して走り出した。リュウも歩き出す。 * * * 来夢が由良の視線の先を見るより早くさくらは彼女の前に飛び出した。彼から来夢を守るように立つ。 「……森山くん?」 か細く呟かれた言葉を掻き消すように久遠のすぐ後ろの壁が壊された。壊れた壁から現れたのは赤茶色の長髪の青年。顔は狐の面のせいでわからない。彼が現れた瞬間に警報が鳴り響く。魔王の宝石を持たざる侵入者を知らせる合図だ。 「待ってるように言わなかったっけ?」 「ごめん、暇でさ」 はあ、と久遠はあからさまに溜め息を吐いた。そしてこちらを見るとにっこり微笑んだ。 「久遠さん! もうやめてください!」 「……なにを?」 「能力を使うのを、です」 細められた金の瞳を見上げながら、さくらはちゃんと届くように声を上げる。 ずっと樹々を気にかけていた久遠ならわかっているはずなのだ。こんなことを樹々は望まない。 「樹々さんは自分のために久遠さんが命を削ることを望むはずがありません」 「違うよ、俺のためだよ」 これは久遠が望んでやっていること、樹々は関係ない。けれど全く無関係というわけではないのだろう。樹々が言葉にした最期の願いだから、本心じゃないにしても叶えようとしている。そしてそれが償いだと思っている。 「も、森山くんっ! ……あの、音無は……?」 「……死んだよ」 来夢は樹々の死を知らされてなかった。いや、樹々の死後すぐに久遠がみんなから記憶を抜き取っていたから来夢に知らせる者がいなかったのだ。樹々の死を知って泣くのではないかと思ったが、来夢は「そっか」と微笑んだ。これには久遠も驚いていた。知人が死んだのにどうして笑えるのか、さくらは首を傾げ来夢を見上げる。 「音無は、自分のせいで誰かが悲しむのを嫌がるんだよ」 「……知ってる、だから」 「違うよ! それじゃあ森山くんが悲しんだままじゃない」 いつ死んでもおかしくなかった樹々はいつも自分が死んだときのことばかり考えていた。さくらは何回かその話を本人から聞いたことがある。誰も悲しまない死に方をしたい、病死なんて誰が喜ぶんだよ、と淋しそうに笑っていた。 「森山くん、もういいんだよ?」 「…………」 「音無は森山くんに能力を使ってほしくないんだよ」 来夢はさくらの横を通り過ぎて久遠の前に立つ。 わかってたでしょ?と優しく微笑む来夢はまるで子供を窘める母親のようだった。 「……青柳が」 「え、あさぎ?」 「あんたを最後にしろって言ってたんだ」 久遠の言葉に来夢はきょとんとしている。 あさぎは樹々が言葉にした最期の願いを知っていたのだ。だから樹々が死んですぐに久遠に会いに行った。久遠が記憶を消しに向かった順は白百合病院、黒薔薇学園、魔界、王宮、音無家だ。そして最後が来夢。 「これ。青柳あさぎから取った樹々の記憶。あんたの好きにしていいよ」 「好きにって……私、魔界から出られないのに」 どうやってあさぎに返すのよ、と来夢は恨めしそうに久遠に渡されたビー玉より大きい石を見詰めた。 久遠はここにきて初めて優しく微笑んで「ありがとう」と言い、去ろうとする。それを引き止めたのはいつの間にか由良の隣にいたリュウだった。 「魔王の出番はなかったかな」 「そんなものは最初からねぇよ」 相変わらずリュウに対して辛辣な久遠に来夢は楽しそうに笑った。由良がリュウにお辞儀するのを見てさくらもお辞儀をした。 久遠は思い出したかのように首にさげていたペンダントを外してリュウに投げる。 「なくしたくないから預かっといて」 「……一年だけ待っててやろう」 「うわ、何様」 「魔王様」 ムカつくと呟いた久遠の頭を今まで見守るだけだった狐の面の男がぽんぽんと撫でた。そしてくいっと外を指差す。やり取りをぼんやり眺めていたさくらが「帰りたいのですか?」と聞くと数秒の間を明けて頷いた。 「……喋れよ」 先に久遠が壊された壁から外に出て行った。 狐の面の男もすぐに追うのだろうと思ったら、リュウの方を見た。 「一年以内に必ず返すよ」 「『生きて』返してもらえるかな」 「僕に彼を死なすつもりはないよ、本人が望んでもね」 リュウは不思議に思った。狐の面の男は何故、久遠と共にいるのか。死なすつもりがないのなら能力が目当てではないことは明らかである。もしかして……。 狐の面の男は自分が破壊した壁から帰って行った。 * * * 狐の面の男もといラウはドラゴンの背に倒れるように乗っている久遠に溜め息を吐いた。それに気付いた久遠はむくりと起き上がり不機嫌そうにラウを睨む。 「千里眼と読心術」 「……それが何?」 「あと、簡易結界かな」 「…………」 「使いすぎ」 ラウの指摘に久遠は返す言葉もない。どうやら使いすぎた自覚はあるようだ。「よいしょ」とラウはドラゴンの背に乗り、狐の面を外して「おっさんか」と笑う久遠に手渡す。このお面はラウが久遠にあげたものなのだが、被ってろと言われたので借りていた。魔王城の者にラウの顔を知られたくなかったらしい。これからやろうとしていることを考えれば当然か。 二人を乗せたドラゴンは魔王城から飛び立った。久遠は魔界を出てからドラゴンに施していた簡易結界を解いた。 「いい友人だね」 「……うん」 今の森山久遠は流されやすい。音無樹々という自分の世界の中心だった者を失ったから。彼に長く生きてほしくて能力を使ってきた。それが久遠の生きる意味だった。青柳あさぎは気付いていた、久遠の脆さと樹々の影響力に。だから来夢の優しさに賭けた。彼女なら諭せると信じて任せたのだろう。 「――死なせないから」 「え? なんかいった?」 聞こえなかったのなら読心術でも使えばいいのに、と思いながらラウは首を横に振った。 ま、使ったら怒るけど。 |