描く心 筆を捨てたのはいつだったか。 もう描かない、描くことはないと思っていたのに……。 * * * 久しぶりに出掛けた帰り道。一人の少女の優しい歌声に思わず足を止めた。無数の足音が響く中に強かなピアノの旋律。路上で弾き語りをしている少女は幸せそうに歌う。 「…………」 僕は無意識のうちに鞄からノートと鉛筆を取り出していた。指が僕の心を表現する。無地のページに少女を描く。 いつだって満足する絵は描けなかった。周りに褒められた絵でも自分は納得していない。気に入らない自分の絵が評価されていくのが嫌だった。それに耐えられなくなって描くことをやめた。筆を捨てた。 そんな僕にまた筆を持たせるほど彼女の歌う姿は魅力的だった。羨ましいくらいに。 * * * 「……っ!」 楽しそうに歌っていた少女が急に左胸を押さえ蹲る。通行人は心配そうに見る人はいたが立ち止まって声を掛ける人はいなかった。少し離れた場所で少女を描いていた僕は慌てて少女に近寄り背中を摩る。 「だ、大丈夫ですか?」 「! え、あっ、ありがとうございます」 驚きで目を丸くした少女はすぐにふわりと微笑んだ。「すぐ治まりますから大丈夫です」と少女は言うが顔色が悪く、今にも倒れそうだった。 「えっと……あの、薬とかは」 ないんですか?と聞く前に少女は首を横に振って苦笑いを浮かべる。持ち合わせていないのか。 この時、僕は苦笑いの意味を正しく理解していなかった。 * * * しばらくして、顔色が良くなった少女はぺこりとお辞儀をする。近くで見て初めて彼女は自分よりも随分と年下であることに気付いた。 「もう大丈夫です。 本当にありがとうございました」 「いや、こちらこそ」 「?」 少女は僕の言葉に小首を傾げる。傾げられた理由がわからなかった僕も同じように首を傾げた。すると少女はふふと細い肩を震わせ笑う。笑われた理由がわからない。 「わたしは如月愛歌です。 体調がいい日はここで弾き語りをしています。 お兄さんは?」 少女もとい愛歌は朗らかな微笑みを浮かべ、僕を見上げる。なんて答えようか。筆を捨てた時に美大を中退し、今は引きこもりである。名前だけでもいいだろうか。 「僕は――」 「愛歌ッ!」 名乗ろうとした瞬間に颯爽と現れ、僕から愛歌を遠ざける謎の男。 「またこんなところで歌っていたのか! 可愛い妹に何かあったらと思うとお兄ちゃんは不安で死にそうだ!」 「なにもないよ?」 「例えば変態に拐われるとか! ロリコンにストーキングされるとか!」 チラチラと僕を見ながら言う失礼な男に愛歌は頬を膨らませ不機嫌を顕にした。そんな顔も可愛いなあ! と重度のシスコン男が愛歌の頭を撫でようとすると、愛歌は触れる前に男の手を叩き払う。 「わたしは今年で18だよ! 子ども扱いしないで! ばか兄!」 まさかの18歳宣言に驚きが隠せない僕は改めてまじまじと愛歌を見る。 が、どう見ても中学生以下にしか見えない。幼児体型? 「それにこのお兄さんはわたしを助けてくれたの!」 愛歌が僕の腕を掴む。変態でもロリコンでもないよ! と声高々に宣言してくれた。通行人の目が痛い。恥ずかしい。 「助けてくれたって、お前また発作が!?」 心配そうに声を荒げる男に愛歌はしまったという表情を一瞬浮かべて俯いてしまった。腕を掴む手に力が込められた。 「頼むから、お願いだから、もうやめてくれ……! 俺はお前が、愛歌がっ」 「わたしには歌しかないの」 必死に懇願する男に愛歌は俯いたまま言葉を吐く。歌う時とは違う、感情の見えない声音で言う。 「歌わなきゃ、わたしがなくなっちゃうもん!」 顔を上げて目尻に涙を浮かべながらも真っ直ぐに男を見て、ばっと背を向けて走り出した。僕は愛歌を追おうとしたけれど、彼女の兄に腕を掴まれて追うことは叶わなかった。 男は愛歌を追うことはせず、来た道を帰って行った。 * * * 心のままに描いた少女は幸せに溢れていた。この絵を完成させたい。一度筆を捨てた僕に再度筆を持たせた愛歌の歌う姿をもう一度見たい。 棚のいちばん上に置いてある埃を纏った箱を取り出して、画材道具たちを優しく撫でた。 今度、愛歌に会えたら描いていいか聞いてみよう。きっと、絶対、気に入る絵を描くんだ。 |