宵の明星 6限目が終わりSHRも終わって部活に向かう人や帰る人が教室から出て行く。生徒が片手で数えられるほどに減った頃、俯いてぼんやりとしていた来夢は立ち上がった。 『両親のいない来夢にはわかるわけないよっ!』 耳にいつまでも残って離れてくれない、あさぎの言葉。 傷付けるつもりはなかったんだとすぐにわかった。来夢が立ち入ったことを聞こうとしたから遠ざけたのだ。あさぎは「言いたくない」と言っていたのに関わらず聞こうとして、自業自得なのに泣くのは卑怯だ。 すん、と鼻を啜る。 帰ろう。 机の横に掛けてある鞄を持ち上げ中身を確認する。クラスメートを疑っているわけではないのだが置き勉は不安なので何も残さずに持って帰っている。そのため、いつも鞄が悲鳴を上げているような気がする。 * * * この時間帯の空は紺や紫、橙のグラデーションが綺麗で好きだ。 赤信号を確認すると立ち止まって空を見上げた。 「一番星でも見つけた?」 不意に隣から聞き覚えのある声がした。 驚いて声の主を見ると、金の目を細めて空を見ている森山久遠がいた。その手にはスーパーの袋を提げている。 「森山くんは……買い物?」 「ん? あー、晩御飯」 「自炊してるの?」 「そう。食べてく?」 久遠は信号の先にある学生寮を指差して「樹々もいるし」といつもの薄い笑みを浮かべて言う。 今日の晩御飯は一緒に暮らしている祖母がいないので一人の予定だった。嬉しい申し出だが、迷惑なんじゃないかと考えてしまって素直に頷けない。 樹々がいるとはいえ一人暮らしの男子中学生の家にお邪魔するのも気が引ける。しかもそんなに親しいと思われていないだろうし。 悶々と思考の渦中にいると隣から穏やかな声が聞こえた。 「深く考えすぎじゃね?」 「え……でも迷惑じゃない?」 「迷惑だと思ってたら誘わねぇよ」 信号が青に変わって歩き出す久遠に「お、お邪魔します」と俯いて小さな声で言った。 * * * 学生寮といっても構造はアパートとなんら変わりはない。 黒薔薇学園の生徒は家賃を払う必要がなく、一般の人は家賃さえ払えば誰でも住める。学生寮と呼んでいるのは生徒だけで一般の人はアパートと呼んでいるらしい。 そんな建物の9階に久遠は住んでいる。 「高いね!」 「高いとこ好きなの?」 「うん! 飛んでみたい!」 エレベータを降りて通路を歩きながら来夢は愉しそうに外を見ていた。 来夢は空が好きなのだ。近付けたら近付けるだけ幸せな気分になれるから高い所も好きだった。 「飛び降りるなよー」 「降りないよ、昇りたいんだもん」 「ふぅーん。じゃあ、あとで屋上行く?」 久遠の提案にぱあっと表情が明るんだがすぐに曇った。 不思議そうに見る久遠に来夢は「あ、今は……いいや。ごめんね」とぎこちなく笑う。 空が好きな理由、近付きたい理由、それは両親が死んで間もない頃に『きっと空からライムお嬢さんを見守ってくれていますよ』と言ってくれた人がいたからだった。 両親のいない来夢にはわからない悩みがあさぎにはあるのだ。来夢では力になれない。 こんな親友も助けられない無力な自分でも両親は見守ってくれているのか不安になった。 「考えすぎ、重く捉えすぎ」 「え?」 「青柳は翠川に助けてほしいとは思ってねぇよ。 むしろ自分のことで悩ませたくないんだろ」 だからって放っておけることでもない。 いつの間にか家の前に着いたらしい。久遠はドアを開けて入るよう促した。 「お邪魔しまーす」 「ただいまー」 リビングには樹々がいて教科書と睨めっこしていたが「おかえり」と言って顔を上げた。 来夢を見て目を丸くした樹々は何を想像したのか「誘拐!?」と驚いていた。 来夢が誤解を解こうと何か言うより早く久遠が「おう、路頭に迷ってたから拾ってきた」と笑う。 「拾い食いかよー行儀悪ぃ」 「いーじゃん、晩御飯くらい」 「え? 食べてくの?」 樹々は嬉しそうに来夢を見る。 二人のやりとりを呆然と見ていた来夢はいきなりこちらを見た樹々に戸惑いながら頷いた。 「晩飯なにー?」 「コロッケ。翠川、悪いんだけど出来るまで樹々の勉強見てやってくんねぇ?」 「え? ……うん、わかった」 晩御飯を手伝おうと思っていたら樹々の勉強を頼まれてしまった。 久遠はさくさくとキッチンで料理を始めている。 教えられるか不安はあるけど樹々の隣に座って一緒に教科書を見る。よかった、得意な科目だ。 * * * 晩御飯を食べ終えて久遠が紅茶をいれてくれた。 それから樹々がトランプを棚の引き出しから勝手に取り出して七並べや大富豪で騒いで遊んだ。 騒ぎ疲れたのか樹々はソファで眠っている。 久遠はブランケットを掛けてやりながらぽつりと呟く。 「落書きしてぇなぁ……油性ペンで」 「ふふ。森山くんと音無ってホント仲いいね!」 「そう?」 冗談が言い合えて、関わりにくいと言われる久遠にこんなに世話を焼かれている樹々は純粋にすごいと思えた。 久遠が樹々のペンケースから黒ペンを取り出すのを見て来夢は慌てた。マジで書く気なのか。 「え、本気?」 「無防備に寝顔を晒す方が悪い」 いつの間にか久遠は薄ら笑いではなく悪戯っ子の笑みを浮かべている。黒ペンのキャップを外すと無防備に眠る樹々の顔に落書きを施した。 * * * 少ししてから樹々のお迎えが来た。 ダークスーツに身を包んだ細身の男は松田というらしい。 「こんばんは、久遠くん」 「今日もご苦労さん」 松田は来夢に一礼をすると樹々の顔を見て驚いていた。 その反応を久遠は愉しそうに見ている。 「お手洗いをお借りしても?」 「あ、その前にケータイ貸して。台所使いなよ」 ハンカチを濡らしに行こうとした松田は素直に久遠にケータイを差し出す。 ケータイを受け取った久遠は少し弄って樹々に近付く。 カシャ。 「松田さん、これ樹々が起きたら見せてあげて」 「……相変わらず悪戯好きの悪ガキですね」 最近は大人しくなったと思っていたのに、と何故か悔しそうに松田はぼやいた。彼も悪戯の対象になったことがあるのだろう。 「あと、この子送ったげて」 「え?」 「はい、構いませんよ。家はどちらですか?」 樹々を起こさずに器用に顔の落書きを消した松田は来夢の方に目を向ける。 いくらなんでもそれは……と考えていると久遠が「白百合病院とは真逆の方向」と勝手に答えた。詳しい場所は知らないのだろう、「そうだよな?」と同意を求められたので頷く。 この流れでは送られてしまう。 来夢は慌てて「大丈夫です!一人で帰れます!」と言うも松田に「こんな時間に一人は危険です!」と怒られて何も言い返せなかった。 「……ごめんなさい、お願いします」 「はい。……いきなり怒鳴ってすみませんでした」 お互いに深々と頭を下げた。 松田は来夢に穏やかに微笑みかけると彼女の頭を優しく撫でる。 「貴方がたはまだ子供なのですから甘えなさい」 「あまえる?」 「えぇ。遠慮なんてしなくていいんですよ」 「わぁー、松田さんが女の子泣かせたー」 優しい声音に心が暖かくなってつい涙が流れた。 お父さんってこんな感じなのかな、と思った。 松田は慌ててわたわたしていて、久遠は愉しそうに二人を眺めている。 そしてタイミングが良いのか悪いのか樹々が起きた。 「え、久遠、何泣かせてんの?」 「ちがっ」 「いやぁー、ちょっとからかったら泣いちゃった」 久遠は来夢の言葉に被さるように言った。 松田は深い溜息を吐いた。 よくあることなのか。 「泣き顔も可愛いね、来夢ちゃん」 久遠はずいっと顔を近付けて耳元で囁いた。語尾にハートがありそうな甘い声に一瞬で顔に熱が集まる。 ばっと両手で顔を隠しす。泣き顔と赤い顔を見られないように。 「く、口説くなよ!」 「妬いた?」 「どっちに?」 松田が至極真面目な顔で問うた言葉に樹々はしばしば考え出す。 「いや、そもそも妬いてねぇし!」 そんな3人のやりとりが可笑しくて来夢は笑った。 樹々と松田は自分達が何か面白いことをしたかと言動を振り返ってみても思い付かず、肩を震わせて笑う来夢を不思議そうに見ている。 二人は彼女がもう泣いていないことに安堵した。 |