30日目 カーテンの隙間から朝日が差し込む。その眩しさで目を覚ました。 朝だ。起きなければ、とベッドから降りようとしてから思い出した。足はもう動かせないのだった。 「あ」 ずるっと体を支えていた手がシーツの上を滑る。 ビタンッと盛大な音をたてて美雨は柵のないベッドから落ちた。痛い。 足が動かせないから起き上がるどころかのたうち回ることさえ難しく、落下地点で唸ることくらいしか出来ない。 「美雨さま? 大丈夫ですか!?」 頭を打ったせいだろうか。魅麗の声が聞こえた。次いでドアを開ける音。美雨は横たわったまま、心配そうに駆け寄ってきてくれた少女を見る。魅麗だった。……んん? 「魅麗ちゃん!!?」 「はい! 魅麗です」 「あはは、驚いたー?」 ガバッと腕の力だけで上体を起こした美雨に笑いながら声をかけてきたのはいつの間にか部屋にいた久遠だった。 誘拐されたかもしれないと心配していた魅麗が魔王城にいたのだ。驚かない方がおかしい。 「とりあえず着替えなよ。その間に明を呼んでくるから」 「う、うん」 「お手伝いしますね」 久遠が部屋から出て行ったのを確認してから魅麗が制服を持ってきてくれた。昨日は明に色々と手伝ってもらった。これから先、誰かに頼らないと着替えさえままならないのだろうか。こんな足で帰ってきたら、両親はどう思うのだろうか。足が動かないことを実感して、急に不安になった。 * * * 車椅子に乗せられて、昨日リュウと会った部屋に連れてこられた。ここは客間で謁見の間は別にあるらしい。ゆるい魔王様は謁見の間がお好きではないようです。 机を挟んだ向かい側の長い椅子(ソファ)にはリュウと久遠が一人分の間を空けて座っていて、美雨の右には明が、左には魅麗が座っている。 机の上には紅茶と色んな種類のパンが並んでいた。朝食か。 「改めて自己紹介をしようか」 「えっ」 「この魔界の王、樋口リュウ。生まれは人間、元吸血鬼、現魔王だよ」 リュウは言い終わるとにっこり笑った。そんなにころころと種族って変わるものなのだろうか。 「森山久遠。ちょっと普通じゃない能力が色々と使えちゃう人間でーす」 気だるげに、けれど薄い笑みを浮かべて久遠が自己紹介をした。普通じゃないとか聞こえたけど、美雨は急に始まった自己紹介に戸惑っていて聞き返す余裕がない。 「私は明・マリア。冥界育ちで魔力持ちの歌姫よ」 冥界育ち? 疑問に首を傾げる前に「美雨さま」と名を呼ばれて、そちらを向く。 「改めまして……魔王直属お抱え吸血鬼の一匹、魅麗です」 何を言っているのかがわからなかった。魅麗は妖怪の猫娘じゃなかったのか。どういうことなのか。説明を求めて久遠の方を見る。 「……あのまま冥界にいたら死刑にされる。だから魔界に連れてきて、リュウの血をあげたんだよ」 「選択肢は与えた。吸血鬼としてでも生きることを選んだのは彼女だ」 どうして死刑にされるのかには心当たりがあった。きっと美雨の足のせいなのだろう。美雨とミケは魅麗を救えてなどいなかったのだ。でも、あの時は死ににいこうとしていた魅麗が今は生きることを望んでいる。 「そっか」 「ごめんなさい。魅麗は罰を受けるべきなのに――」 「違うよ! 魅麗ちゃんはわたしのためにも、ミケさんのためにも生きて!」 どんなかたちであれ、元気でいてほしい。美雨はいなくなってしまうけれど、もう会えなくなってしまうのだけれど、自分の知らないところで不幸になってほしくない。 美雨の言葉に魅麗は泣きそうになりながらも笑顔で頷いてくれた。 * * * 魔王城でリュウと魅麗に別れを告げて、魔界の船着き場で明ともお別れをして、船で海を渡って、息を吐く間もなく車で移動。あっという間だった。 ふと、隣に座っている久遠を見やる。 「久遠さん、大丈夫?」 「……なにが?」 久遠は窓の外に向けていた視線をこちらに向けると首を傾げた。 顔色が悪いような気がしたのだけれど、気のせいかな。肌が白いからそう見えるだけかもしれない。美雨は首を左右に振って「なんでもない」と答える。彼は「変な子ー」と笑った。いつも通りだと思う。 「そういえば、久遠さんはどこに行くの?」 「遠いところ」 「もう冥界には行かないの?」 「うん。行けないかな」 いつも通りの笑顔なのに、少しだけ悲しそうに見えた。 「ありがとう」 「えっ?」 「冥界のみんなを救ってくれて」 「……?」 「俺じゃ出来なかった。祖父の真似をしてみても、その後がいつも上手く立ち回れなくて結局誰も救えてない」 祖父とは、ミケや魅麗を助けたという「バレなければ大丈夫」の人か。 「わ、わたし、なにもしてないよ?」 「そんなことねぇよ」 謙遜などではなく本当になにもしていない。迷惑ばかりかけていた。 否定してくれた久遠は穏やかな表情をしている。珍しい、というか白雪に向ける表情だと美雨は直感で思った。 白雪は救われたのだろうか。 * * * 喫茶店。普通の喫茶店だ。 運転していた人に手伝ってもらって車を降りると、喫茶店の前だった。自分はこれから何をするんだったかなと混乱する。 「いらっしゃいませー!」 ドアから出てきたのは中華服を着たサイドテールの美女。 美女は美雨を見て朗らかな笑みを浮かべる。可愛い。 「初めまして、美雨さん! あたしはメイファ! よろしくね!」 「あ、はい。よろしくお願いします」 なんで名前を知っているのかと疑問に思いながら、メイファに握られた手をぶんぶんと揺らされていた。胸が揺れている。羨ましい。 「久遠さんもこんにちは!」 「はい、こんにちはー」 喫茶店の中には優しそうなマスター(バーテン服)とウエイトレス(メイド服)とウエイター(燕尾服)がいたが、美雨たちは地下に案内された。ここのお店の制服はどうなっているのか不思議に思いながら車椅子を押してもらっている。 メイファが一枚の紙を差し出してきたので受け取る。アンケート用紙だった。 「お茶を用意するからその間に書いておいて!」 そう言い残してメイファはばたばたと階段を上っていく。 久遠はソファに横になっている。寝るのか。 美雨は机に向かってアンケート用紙の内容を見た。 「……」 いちばん上に氏名欄がある。その下に様々な質問。 『あなたがいた世界についてわかること』『あなたが住んでいた土地の名前』『あなたがいたのは何年何月何日』『あなたがこの世界に来る前の状況』などを黙々と書いていく。 すべて書き終える頃にはメイファがいて少し驚いた。 「書けた? 見せてー」 両手で用紙を請求するので美雨も両手で用紙を授与した。 メイファは用紙を見ながら機械になにかを打ち込んでいる。 いつの間にか起きていた久遠も内容を確認して、棚から分厚いファイルを取り出していた。 「車椅子どうする?」 「向こうでも使えるかな?」 「使えるけど」 「じゃあ、車椅子ごと行こう!」 なんの話だろう。 美雨は大きな鏡の前に運ばれて、鏡を見るとそこには見覚えのある景色があった。 「あ、え、これ……」 「美雨さんの世界で間違いない?」 「うん」 美雨が少年を助けて車に跳ねられた場所だ。 急ブレーキをかけた車、慌てる運転手、泣き喚く少年と駆け寄る母親、騒然とする公園。美雨がいなくなった直後の光景だろうか。少年は膝を擦りむいたくらいで大きな怪我はないようだった。よかった。 「美雨さんは今からここに帰ります」 「……うん」 口調を改めたメイファは少しだけ寂しそうな顔をした。 彼女はたくさんの異世界人を帰してきたのだろう。あの分厚いファイルにはきっと様々な異世界人のデータがある。 「ありがとう」 「?」 「メイファさん、わたし、この世界に来たこと後悔してないよ」 アンケート用紙の最後の質問。 『この世界はどうでしたか』 彼女はどんな思いでこの質問の回答を見るのだろう。 「お世話になりました!」 美雨が笑って最後の言葉をかけると、メイファと久遠も笑って「お元気で!」と送り出してくれた。 まばゆい光に目を瞑る。次に目を開けたらきっと鏡に映っていた場所に美雨はいるのだろう。 |