「だめです先生、わかりません」
「……」

小さくマスルール先生が溜息を吐いた
うっと喉を詰まらせて私はしょぼくれる
此処は有名な進学塾。何が有名って成績が上がるのは勿論のこと、先生達がとってもかっこいいということでお母さん達に有名なのだ

私のお母さんもその噂につられた1人
成績が芳しくない私を此処に強制的にぶちこんだ
で、甲斐甲斐しく送り迎えにやって来てはお目当ての先生とお話しするのだ
娘をだしに使うなんぞなんて親だ、まったく

「…ここ」
「はいっ」

先生が教科書の一部を指差す
そこに書かれていた方程式と、問題集の方程式を丁寧に説明してくれた
丁寧って言い方はおかしいかな。端折りつつ言葉少なめに、でも要点はきちんと押さえてくれている

「あとはできるな…?」
「えーっと、こうで…これが解になって、当てはめて」

必死に頭を抱えて解き直す
先生が別の生徒に呼ばれて、そっちへ行ってしまった
1先生につき2,3人生徒を受け持ってるから仕方ないんだけど、ちょっと寂しい
ちらっと向こうに行った先生を盗み見る

ぱっと見、頭良さそうには見えない
実際それほどいいわけじゃないって先生自身言ってた
ただ人手が足りないから此処の社長さんに手伝えって言われたんだとか
頭、上がらないのかなぁ。私見たことないんだけど怖い人なのかな、社長さん

先生は時々解き方を忘れて他の先生に聞く時もある
そして後で軽く怒られたりするのだけど、こっそり覗いた時の先生は私を見つけても、しいっと人差し指を口許に当ててけろっとしていた
基本無表情でも意外とおちゃめさんでもある

所謂ギャップ萌で慕ってる生徒は多い
男子の中には変な憧れを抱いてる奴もいる
問題を解くのを途中放棄していると、ぽかっと頭にバインダーが当たった

「いたっ」
「おら、サボりはダメだろ」

シャルルカン先生だ。この人もとても人気がある
私の一学年上を教えているから此処には滅多に来ないんだけど、来るとなんやかんやで野次を入れられる
親しみやすいお兄ちゃん先生、かな

「先輩どうしたんスか」
「ああ、担当科目でちょっとな…」

お仕事の話が始まった
仕方ないので再度問題に取り組む
塾に通いだしてから成績は少しずつ上がっている。…数学を除いては
どうしてもこれだけは苦手なんだよねぇ

「―――セレーナ!」
「わっ!はいっ!?」
「休憩時間だけど話聞いてくれるか?」

知らない間に休憩時間に入ってたみたい
別にジュース買いに行く気分でもなかったので頷くと、シャルルカン先生は適当な椅子に座った
同じようにマスルール先生も椅子に座って私を囲む

「セレーナ数学だけ成績横這いだろ?」
「う。…はい」
「いや別に責めてるわけじゃねーんだ。他は上がってるわけだし、…こいつの教え方が悪いだけだろうし」

棘のある言い方でシャルルカン先生は隣を見た
そうかな。私はとても好きなんだけどな、先生の教え方

「だから数学重点に一時的に切り替えて、講師も変えてみねぇか?」

とりあえず試しに1ヶ月数学だけをみっちり
マスルール先生よりもっと数学得意な先生がいるから、その人とマンツーマンで
値段は変わらないし希望するなら別科目も勿論受けていい

「親御さんにも話しとくから考えておいてくれ」
「…わかりました」
「じゃあ後半ガンバレよ」

わしゃわしゃ頭を撫でてからシャルルカン先生は去っていった
乱れた髪を直す気が起きなくて、俯き問題集に視線を落とす

この際だから言っておくと私はマスルール先生が好きだ
もしかしたら憧れかもしれない。歳だって離れてるし、相手にされてないことぐらいわかってる
でも先生に褒めてほしくって必死に頑張っているのは事実
なのに私が数学できない所為で離れて、同時に先生の評価まで落としてしまうなんて

「ごめんなさい…」

謝罪の言葉が口から洩れた
先生はどう思っているんだろう。ダメな生徒って呆れているのかな
さっきだって溜息吐かれたし…他の子の方が教え甲斐あるなんて、思ってたり、して

「何故謝る?」
「だって数学できなくて…先生に迷惑かけて」
「…それ以外の教科はできているから…俺の教え方が悪いだけだ」

そんなこと、と顔を上げて目に飛び込んできたのは、先生のどこか哀しそうな顔だった
それを見てしまったら何も言えなくなって、私はまた俯いて静寂を打ち消すようにがりがりと問題集に意味の無い文字の羅列を書き込んだ

先生、私少し寂しい
先生、私やっぱりバカだよ

どれだけ国語の成績が上がっても、先生に想いを伝える最良の言葉がわからない
どれだけ歴史の成績が上がっても、私と先生の年齢差を埋める方法がわからない

だからきっと数学を頑張っても先生には何も届かない
答えの出ない方程式を永遠と解き続けるだけなんだ
いつまでもいつまでも、「χ」ばかり書き連ねて

その日お母さんが迎えに来て車で帰る途中、どうするかと尋ねられた
曖昧に言葉を濁して窓の外を眺める
もう少しだけ、傍にいたい。でも賢くならなきゃいられないかもしれない

「明日もっかい先生と相談してみるよ」
「そう、好きにしなさい。お母さんは塾に行ってくれるならそれで良いわ」
「ジャーファル先生と話せるからでしょー?」

柔らかな笑みに凛々しい物言いのジャーファル先生に、お母さんはまるで少女のように恋してる
まったく、もう40代後半だっていうのに

「歳考えなよお母さん」
「あら失礼ね。恋に年齢は関係ないわよ!」
「お父さんに怒られるよ」
「あの人は愛だからいいの。それより今日なんか名前で呼ばれちゃってね〜!」

恋に年齢は関係ない、か
希望のような絶望のような不思議な言葉
私の恋は愛になることができるのかな







「ばいばいまたねー」
「うん、またねー」

駅まで一緒に帰って友人と別れる
家に1度寄ってから塾に行こうかな
鞄から定期を取り出そうと立ち止まる
人ごみの中、ふと赤い髪が見えた

「あっ、マスルールせん…っ」

やった!なんて喜びは露と消える
綺麗な女性が傍にいて笑っていた
それだけじゃない、先生の頬を抓って耳元に唇を寄せて親しげに何か話している
美男美女は周囲の目をひいていて、2人をぽーっと眺める人も数人いた

かっこいい。かわいい。びじん。きれい

成熟した大人の身体は魅力的に見えた
俯きがちになると制服が映る
必死にスカート丈を短くして、ちょっとでも意識してほしいという現れが滑稽に感じる

どれくらい立ち尽くしていたんだろう
駅の時計は塾の開始30分前を指していた
定期入れを改札に当てる。何事も無く通り抜けて………一目散に反対方面の電車に乗り込んだ



がたん、ごとん、がたん、ごとん、がたん、…

電車が揺れる。人も疎らになってきた
どこまで行くんだろうか、この電車は
線路の続く限りずっとずっと進んでいって、最後に崖から落ちてしまったらいいのに

『次は終点〜』

アナウンスが響いて荷物を動かす音が響く
私も一緒になって見知らぬ駅で降りた
中心から1時間離れただけで、寂れた古い所に辿り着いた
ホームの軋む椅子に座って膝を抱える

「せん、せい」

さきにうまれるとかいて、先生
たったそれだけのことなのに重く圧し掛かる

ほんの少しでいいから私も早く生まれたかった
先生は20歳を越えた大人
私は20歳を下回る子供

先生が先生じゃなくたってきっと好き
恋は盲目とよくいったもの
何も知らないくせに、子供の私は恋にひたむきに走り続ける

「べんきょうなんてほんとうはキライ」

これがいつ役に立つのっていつも思ってた
バカでいいって思ってた
でも先生はバカな私をバカだと言わず、一緒になって解いてくれた
自分もバカだったけど恩師にそうしてもらったから、って

「でも、せんせいはスキ」

キライとスキが掛け合わさって気持ちはダイスキになった
あのね先生。私今度の期末試験、物凄く頑張って学年順位30番以内になったら、先生に何か奢ってもらうつもりだったの
受験に合格したら私、先生のこと好きだって言おうと思ってたの

「私本当に馬鹿だったんだなぁ…!」

やっぱり勉強なんて大嫌い
方程式より枕詞より元素記号より、先生の気持ちを知れる方法を教えてほしかったよ
勉強は私に要らないことばかり教えて大切な何かを盗っていったんだ

先生に彼女がいたって知ってたら恋なんてしなかった
憧れだって強く言い聞かせて、辛くたって頑張れた
彼女になれなくても可愛い生徒でいようって諦められたのに

「せんせい、せんせい…」

電車のライトが暗闇を照らす
ホームの切れ掛かった電球が疲れた人達を浮き上がらせた
みんな、私のことは気にかけずに通り過ぎていく
駅員さんが不思議そうに私を覗き込んできた

「君大丈夫?」
「あ…」
「これ折り返しで市内方面の最終になるけど、乗る?」

うっすら浮かび上がる時計は11時を指していた
何時間此処にいたんだろう
だけど、まだ帰りたくない。帰ったら怒られるに決まってるし、それに

「大丈夫です。地元駅此処ですから」
「そう?気をつけて帰るんだよ」

駅員さんは電車に乗り込んで笛を吹いた
殆ど人の乗っていない電車がゆっくり動き出す
からっぽのアレは一体何処まで行くんだろう

じわりと瞳に涙が滲み出た

私の顔をライトが照らす
また電車が来たのかと思って涙を袖口で拭いた
線路の向こう、金網を挟んだ道路に先生がバイクに乗っていた

「え…!?」
「今そっちに行く」

驚く私にそれだけ言ってエンジン音が響いた
3分もしないうちにホームの階段を駆け下りる音がして、先生が珍しく眉を顰めて駆け寄ってくる
怒られる!とぎゅっと瞳を瞑った

「…よかった」

ぎゅう、っと抱きしめられた
先生は何度も何度も小声で、心の奥底からそう思っているのか「よかった」を繰り返す
じわじわ滲んでいく視界は瞬きをした途端溢れかえった

「ごめんなさい…!」

上手く言えたのは最初の1回だけ
先生と同じように何度も何度も言おうとしたけど、言葉の代わりに涙が出てきて止まらなかった
優しく背中を撫でられて促され、改札で超過分のお金を先生が支払った
ヘルメットが手渡されると後ろに乗るよう言われる

「―――先生」

静かな住宅街をバイクが走る
落ちないようしっかりくっついたまま呼んでみた
風に掻き消されて聞こえないかなと思ったけど、先生は少しだけ顔を此方に向けた
前方不注意になるからすぐ戻される

「どうして此処がわかったの?」

塾に来ていないからいなくなったことはわかるだろうけれども
反対方面の、それもこんな遠くまで
信号待ちの交差点で先生はぽつりと呟いた

「全部探した」
「え?全部、って全部?」

青に変わってまた走り出す
塾の最寄り駅から此処までいくつ駅があっただろう
多分、30個ぐらいはあった気がする
それを1つ1つ見て回ったのかな

「駅にいるって限らないのに!?」

車が多くなってきたから少し声を張り上げた
先生は答えずにただただハンドルを握る
気持ち、速度が上がった

頭上を歩道橋が通り過ぎる
青い道路標識も、対向車も、地面の止まれも
暗い夜道にこうしていると不思議な気分になってきた
このままずっとずっと走り続けて、どこにも着かず2人一緒にいれたらいいのに

キキィ、っとブレーキがかかった
折角妄想に耽っていたのに現実に引き戻される
先生がヘルメットを取ってバイクから降りるよう言う
私のヘルメットも取られて、先生はバイクを引っ張ってガソリンを入れに行った

傍に行って溜まるまで眺める
思い出したかのように先生が携帯を出してきた

「…親に連絡しろ」

私のお母さんの電話番号が画面に表示される
素直に頷いて、発信ボタンを押した
数回のコールの後お母さんの声が聞こえた

『先生!?あのセレーナは…!』
「おかあさん、」

言葉が続かない
無意識に私は先生の服の裾を掴んだ
携帯を持つ手が震えている

「あのね、私…」
『どうして心配かけるの!!』

耳を劈くような声が受話器から届いた
先生も驚いて此方を見ている
恐る恐る耳を近づけると、鼻水を啜る音と涙声が微かに漏れていた

「ごめんなさい」
『…先生は傍にいるの?』
「うん…今ガソリンいれてる」
『ちゃんと、…帰ってくるのよ。お母さん塾で待ってるから』

お母さんの声は優しかった
それが逆に申し訳なくなって、私は「うん」としか返せなかった
電話を切ろうとすると制止の声がしてまた耳を寄せる

『セレーナあなた好きな人がいるでしょう』
「へっ!?な、なに言って、『お母さんを誤魔化せるとでも?今日のことは好きな人を教えてくれたら許します』

なんて母親なんだ
突然挙動不審になる私を先生が見てくる
うっかり目が合って、一気に頬が熱くなった

『頑張りなさい。じゃあね』

一方的に電話は切られる
おずおずと携帯を返してまた乗り込む
ヘルメットがあって良かった
まわした腕の体温が伝わらないかとどきどきする

景色が緩やかに流れていく
先生は何も言わない
背中越しに鼓動が聞こえないかと思って、そっともたれかかった
案の定聞こえるはずはなかったけど気持ちは落ち着いてきた

「先生…私先生が好きじゃない」

届いているのかわからない
大きな音を立てて向こう側からバイクがやって来ては去っていく
騒がしいそれに自分の声を紛れ込ませた

「だって先生は早く生まれてきて、先生になっちゃったから」

生徒の私の気持ちも考えずに
さっさとこの世に出てきて、置いていっちゃった
先生は大嫌いだ

「――でもマスルールさんはきっと好き」

ブオン…ッ、と大型トラックが横を抜けていった
見たこともない地名がナンバープレートに刻まれている

「あーあ!先生なんて大嫌いだー」

ヘルメットの中で自分の声が反響する
なんだかおかしくなって、わーい!とかやっほー!とか言って騒いだ
そんな私を先生は咎めることなくバイクを進ませ続ける

「…俺も先生は嫌いだ」

エンジン音に紛れて聞こえた
大人しく口を噤むと、また暫くして何か言ってる
よく聞こえなくて問い返すとちょうど信号で止まった
そのままバイクが路上端に寄せられて先生はヘルメットを外し振り返る

ガラス越しに先生の顔が近付く
静まり返った中、微かにリップ音が聞こえた
触れられていないのにヘルメットを通しておでこにキスされた感覚がして、顔全体が熱く火照りだす
こ、これがあって良かったのか、悪かったのか

「帰るか…」

どこか遠くを見ながら先生が呟く
…それは場所というより、もっと大きな日常の中をさしているように思えた

「ねえ」

服の裾を引っ張る
少し躊躇ったけどゆっくり口を開いた

「センセ、って呼んでいいかなぁ」

たかが1文字なんだけど
ちょっとでも距離が縮まればいい
そっぽ向いたセンセが頷いたのを見て、お母さんには「ごめんなさい」と「ありがとう」を言おうと思った





χ




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