―――私はあなたと一緒に歩むことなんてできないの



そう言うと彼は泣いた
大きな身体をまるで子供のように震わせて泣いた
もう我儘はその唇から紡がれない
分かっているから噤まれる

「さあ行って。あなたにはあなたの世界があるから」

嫌だとはもう首を振らない
でも頷きもせず、彼は私から離れた
扉の向こうに消えていくのをじっと見つめる

その先にある光が包んでいく
どうか、どうか彼を導いて下さい
もう私には歩む足が存在しないから





チュンチュンと小鳥が鳴く
ベッドから身体を起こし背伸びをした
暫くして母が朝食を持って現れる

「おはようセレーナ」
「ええ、おはよう母さん」

母の頬には涙の跡があった
もう数ヶ月も経つというのに、まだ彼女は泣いている
私の足が動かなくなってからもうそんなに経つのに

「ひよこ豆のスープ好きでしょう?」
「ありがとう」

ベッドの近くにテーブルが用意される
そこに朝食が並び、私は母に動かしてもらって腰掛ける形へ移動する

些細な出来事だった
大通りで果物を売って歩いていたら、どこかの貴族の馬車に跳ねられた
たったそれだけだったのに打ち所が悪かったのか足が動かなくなった

「そういえば母さん、またあの夢を見たわ」

スープを一口啜ってから思い出す
母さんはレースを編みながら話を聞いてくれた

「赤い髪の男の子の夢?」
「そう。不思議ね。私と同じように歳を取るの」
「じゃあだいぶ大きくなったでしょう」

私は頷いて今度はパンを齧る
夢を見るようになったのはいつからだろう

幼い私はその頃、連日のように夢を見た
赤い髪の哀しそうな顔をした男の子が、毎日毎日暗い所で誰かと闘う夢
妙に血生臭くてリアルで、当時の私は眠るのを怖がったぐらいだった

でもある日彼が闘わずに蹲っていた夢を見た
泣き声も何もしなかったけど、泣いているような気がして
私はおそるおそる話しかけた

『どうしたの?』

彼の驚いた顔は今でも覚えている
夢なのに、鮮明に

『……お前には関係無い』
『ここはわたしの夢よ!』

その日はそこで目覚めた
翌日からの夢は彼が闘うことが減った
代わりに私とぶっきら棒にだけど話してくれる

少し、嬉しかった

「小さい頃から貴女が言うから、まるで私のもう1人の息子のようだったわ」

懐かしそうに母さんは笑う
そう。私はこうやって夢を逐一報告していたから
子供の妄想だと思っていた母さんも、いつしかその夢に興味を持ち、聞いてくれるようになった

「でも一時期見なかったわね?」
「ええ」

消えたように夢に現れなくなったのだ
ちょうど成長期に差し掛かっていたから、子供から大人に変わる過程で、夢の中の少年は消えてしまったのだとばかり思っていた
ところが暫くして彼は少し成長して、そして服装も綺麗なものになって帰ってくる
彼の話には知らない人の名前も入るようになった

「面白かったなぁ。私が見たこともない生き物や聞いたこともない場所を話してくれたの」
「それを私が聞いて2人で盛り上がったわね」
「本当に冒険しているみたいだった!」

わくわくした。どきどきした
次から次へと、言葉は多くなかったけれど彼は語る
切り立った崖から落ちたとか光る鳥を見たとか、素敵なことばかりで
それには遠く及ばないけれど私も自分の街の話や家族のことを沢山話した

この頃にはもう私達はだいぶ大きくなっていた
同じぐらいだった背も、少しずつ差が開く
夢に出てくる頻度も連日から2,3日、週に1度、2週間に1回と減ってきていて、でもそれが逆に楽しみを助長させていた

「お昼寝では会えないから、不思議だったな」
「いいことよ。昼は遊びなさい働きなさいって言ってくれてたのよ。じゃないと貴女ずっと眠ってしまうでしょう」

そうかも、と私は笑う
昼も遊んで夜も遊んでいるようで楽しかったから
けれど此処数年は全く見なかった

また夢を見るようになったのは数日前から

久しぶりに見た彼は大きくなっていた
私の頭1つ分身長は伸びていて、体格だって想像もつかないほど良いものに
前と同じように不思議な話をしてくれた

今度はとある国のお話
そこはとても素敵な国で、良い所なんだと彼は言う
私は頷きながらずっと話を聞いていた

「あの子は貴女に何て言ってきたの?」

沢山の輝くお話をしてくれた後、彼は暫く考え込んで私を見た
そう、そしてさっき、私に手を差し伸べて言った

「――『俺と一緒に来ませんか』って」
「……!」

母さんは目を見開いて驚いた
すぐに視線は落ちて、身体は小刻みに震える
顔を見せないよう必死に隠していたけど、ぽたぽたと編みかけのレースに涙がかかる

「行けないって言ったわ。ちゃんと」

どうして、と彼は尋ねた
私は自分の足を指差し笑った

『もう、動かないの』

笑う私とは反対に彼は、今の母さんみたいに驚いた
彼が夢に現れなかった間に起きた現実の出来事を話すと、今にも泣き出しそうな顔で私の足を撫でた
感覚は既に無くなっていて温かみも何も感じない

『だから一緒には行けない』
『…俺が、』
『1つ約束して』

そっと右手の小指を差し出す
彼とはもう会えない気がした

『私の分まで沢山走って走って、色んな物を見てね』

私の親指ぐらいの大きさの彼の小指が、差し出されて絡まる
そして私は不意に呟いた



―――私はあなたと一緒に歩むことなんてできないの



本当は、望んでいた
彼の話す世界に自分も行ってみたかった
もし出来るなら彼と、彼の話す人達と一緒に

でもそれは叶わない夢
夢は、結局夢でしかなく、儚く終わる

けれど私は彼が夢だと思えなかった
もしかしたら私の方が彼の夢だったのかもしれない
遠くなっていく背中を追いかけられたら、どれだけ良かったのだろう

「…母さん少し外に出たいのだけど」
「え、ええ。待っていてね」

ズッと鼻水を啜る音が聞こえた
顔を隠したまま母さんは出て行く
私が外に出るために、近くのお金持ちに荷車を借りる
それに私は乗って知り合いの男性に頼んで牽いてもらうしか、今の私は進むことが出来ない

「いつもごめんなさい」
「良いって!気にすんなよ」
「セレーナを宜しくね」

今日は野菜売りの男の子が乗せてくれた
ちょうど市場に野菜を持っていこうとしていたところだから、野菜を乗せていいならお金も要らないとも言ってくれて、有難く厚意に感謝する
ガタガタ揺られながら市場へ向かう
荷車に座ったままだけど、私もそこで野菜を売る手伝いをした

「ほらほらそこの兄さん買ってってよ!」

人が多く行き交いだして市場が活気付く
お金の受け渡しをしていると、傍らに綺麗な女性が立っていた
まるで値踏みをするように私を見る

「駄目ね。顔はマシだけど足が汚いわ」
「え…」

ぽかんとしているとそのまま罵倒が続く
最後にはドン!と肩を押されて、そのまま地面に雪崩れ込んだ

「やだ、動けないの?……ならちょうどいいかも」
「やっやめ」

女性の背後から男の人が数人現れる
どれも盗賊のような出で立ちで、あっという間に私を押さえつけ抱え上げる

「!お前ら何して…!」
「きゃあっ!」

気付いた男の子が止めに入ろうとしたけれどナイフが振りかざされる
思わず目を瞑った隙に、私を抱えた男が路地裏へと攫っていく
離して、やめて、と喚いて叩いてもびくともしない
降ろされたのは砂埃の舞う汚いベッドの上だった

何をするの、なんて聞きたくない
そこは血生臭くて、同時に嫌な臭いと声がした
殺されるか犯されるかどちらかに決まっていた

「コラ!手出すんじゃないわよ!」

さっきの女性が帰ってきて怒鳴り散らす
後ろに男を従えたまま、私の前にある椅子に座った

「アンタ足悪いなら金持ちになってみる気ない?」
「な、にを言ってるの」
「それじゃあ自分で稼ぐのは無理。親もいつかは死ぬし、その時アンタどうするわけ?」

ふーっと煙を女性が吐いた
顔にかかって噎せかえる

…彼女の言う事は正しい
私の夢は叶わない。現実は無情にも過ぎていく
眠っても彼にはきっと会えないし、送り出したのは私だから弱音なんて言えない

「どうせ動けないならその場の地位高くしちゃいなさいよ」
「…何をすればいいの」
「物分りは良いのね。簡単よ、今とある貴族さんが結婚相手探してるから、それになりなさい」

貴族。その単語に事故がフラッシュバックする
轢かれた私をまるでゴミでも見るかのように去っていった
そんな人達の結婚相手になるなんて

「綺麗な娘が歩けないで困ってる。なんて同情引けば一発よ」
「い…嫌…だって、私の足は、」
「奪っていった奴らから金だけでもせびり取ろうと思わない?」

お金があれば楽。働かなくても平気
その身体じゃ親がいなくなったら厳しいでしょう

彼女の言葉は魔法みたいに私に届く
誘惑されたように、いつしか私は頷いていた
その日は丁重に家まで送られた
一緒にいた男の子は幸いにも怪我をしておらず、無事帰ってきた私を見て喜んでくれた
何も知らない母さんも同じように良かったと

私は造られた物かの如く、笑った





何度寝て起きても彼はいない
醒めない夢に彼は行ってしまった
分かっていたはずなのに辛い
自分で送り出したのに、彼は進んで私は止まる事実を受け入れられない

「セレーナ…貴女にお客さんだけど…」

震える声で母さんがやってきた
後ろにはあの女性と、男が2人立っていた
私は笑って彼らを迎え入れる

女性に服を着せ替えてもらい、男が持ってくる宝石に身を包む
豪華絢爛ではなく質素でしかし見劣りしない物を
最後に程よく飾られた手押し車に乗せられる
事を片隅で見ていた母さんに手を振る

「少し出かけてくるわ」
「…セレーナ?どこに行くの?」
「大丈夫。ちゃんと帰ってくるから」

背中で母さんの声を聞きながら押されていく
隣を歩いていた女性が、ふーっと煙草の煙を吐き出した

「アンタ案外図太いわね」
「後ろ向きなだけよ…」

自分では進めないから
それっきり会話もなく、大通りの向こうにある屋敷へ連れて行かれた
ひっきりなしに綺麗な娘達がやってくる
中には入らず、庭の片隅に手押し車ごと私は置かれた

「え、ちょっと…」
「人が来たら使用人がどこか行っちゃって、とか言いなさい。招待状無いのよ」

言うなり茂みの中に消えていく
私をだしに後で入ろうって作戦なのかな
どうでもよくなって、行き交う人々をぼーっと眺める
意外にも早く声はかけられた

「やあお嬢さん」
「…ごきげんよう」
「1人ですか?」

紫髪の美丈夫。私と同じように衣服は簡素に纏めているけれど、何かとても眩しい
隣に来て色々話しかけてきた

「貴方はどうして此処へ?」
「人探しを少しね…この街に来るなり消えてしまった奴がいて」
「それは大変ね。一緒に探してさしあげたいけど…」

視線を足に落とす
広くはない街だけど治安はちょっと悪いし、細い路地も多い
以前の私なら特徴を聞いてすぐ探せたのに

「その気持ちだけ有難く」
「早く見つかるといいですね」
「俺としては君と長く喋れるから、構わないけどな」

にっこりと悪びれもなく笑う
おかしな人、とつられて私も笑ってしまった
…少し、彼が言っていた恩人に似ている

「王サマー!」
「っと、こらシャルルカン…」
「あっすみません。アイツ全然見つからないんですけど…今ピスティが上から見てます」
「ううん、困ったな」

王様?きょとんとしている私に駆け寄ってきた男性が気付いた
交互に見比べてからこそこそ紫髪の美丈夫に何かを言って、軽く小突かれまた怒られている

「いやだってシンさんって言いづら…」
「シンさん!?きゃっ」
「うおっと!」

思わず立ち上がろうとして落ちる
地面にぶつかるすれすれで受け止めてもらえた
礼を述べて、そして詰め寄る

「貴方のお名前はシンさんと言うの?」
「いやまあ…仇名みたいなものだが、それが「昔ずっと北の方で蒼い鳥を見た!?」

呆気にとられている彼に捲くし立てて話す
夢の中で語られた冒険を覚えている限り全部
赤い髪の男の子が崖から落ちた時、泣きそうになりながら呼び続けたことを問うと、目を見開いた

「それは流石に書いていないことなんだが…」
「全部聞いたの。彼に、…ええっと、」

名前、知らない

あんなに会っていたのに彼の名前を私は知らない
子供が故にだったから
名前を知らなくても話して仲良くなれば友達
2人しかいない夢では互いの名前を呼ぶこともなかった

詰まる私に笑い声が届く
私と傍に居た褐色肌の男性はぽかんとしながら、笑う彼を見た

「それは赤髪で目がこうつり上がっていて、無口な奴かな?」
「ええ…でも無口ではないわ。沢山話してくれたから」
「彼の名前はマスルールって言うんだ。今探しているのはそいつでね…合点がいったよ。お嬢さんが話した街は此処で、アイツは君を探しに行ったんだ」
「――そんな、ことって…きゃあっ!!」

一頻り笑った彼に軽々と姫抱きされた
落ちないように首に腕を回してと言われ、うろたえながらも素直に従う
すると中庭を飛び出して大通りの方へ走り出した
後ろを褐色肌の男性も追いかけてきている

「あのっ、貴方は!」
「シンさんでいいさ!おーいマスルール!聞こえるなら返事してくれー!」
「ちょ王サマ流石にそれは無理ですって!」
「じゃあお嬢さんに呼んでもらおう。ほらっ」

大通りのど真ん中
着飾った男女がどんと構えているのを通行人が見てくる
恥ずかしい、けれど…本当に彼に会えるなら
すうっと大きく息を吸い込んだ

「マスルール!…やっぱり置いていってほしくない!私も、私も貴方と一緒に歩いていきたいの!!」

言い切った後すぐに顔に熱が集まる
驚く人々の視線と、私を抱き上げる彼の嬉しそうな顔が一身に降り注ぐ
でもそれは一陣の風と共に吹き飛んだ

「うっそ、俺らが叫んでも来なかったのに」
「ほらマスルール」

夢と同じ姿の彼がそこにいた
無意識に伸ばした腕が肌に触れる
信じられなくて何度も何度も頬や髪を撫でる

壊れ物を扱うように彼に抱き上げられる
向こうの瞳も、信じられないといった色をしていた

「夢じゃない?」
「…はい」
「本当に?」
「俺も、そう信じてます」

そう言うなり彼はシンさんを見て少しだけ頭を下げた
ただそれだけで何がしたいのか分かったのか、「行っておいで」と手を振られる
私を抱きかかえたまま彼が走り出す

まだ歩ける頃でも出せないぐらい速く
建物が動いてるような錯覚すら引き起こすぐらい速く
あっという間に見知らぬ場所へ辿り着いた
…ううん、此処は街外れの壊れた鐘がある塔の上
私が住む街が、大通りが、貴族の屋敷が小さく下に広がっていた

「凄い…」

いつも下から見上げていた景色が一転する
せせこましく動く人なんて殆ど見えない
風にはためく私の髪も、どこか遠くの風景に見えた

「大きな壊れた鐘があって」

不意に彼が口を開く
その瞳は街を真っ直ぐ捉えていた

「塔の傍に小さな公園がある。…そこで遊ぶのが好きで、」

壊れた鐘の代わりに近所のお爺さんが早く帰れと急かしてくる
笑いながら走って、市場で働く母さんの所に行く
大人しく待っていたら野菜売りのおじさんがこっそりトマトをくれる
あまり好きじゃないけどありがとうってお礼を言う

夜ご飯は何かなぁって思いながら食べる
疲れた顔をした母さんが、私を見つけて嬉しそうに微笑む
手を繋いでお家に帰る。下手くそな歌を口ずさみながら一緒に

「――俺の知らない世界で、聞いていて幸せだった」
「私の話つまらなくなかった?」
「つまらなかったらシンさんに話して、…何もないです」

照れた顔が視界に入る
もう一度手を伸ばして頬に触れた
瞳を閉じて気持ち良さそうに撫でることを受け入れてくれた

「約束は守ります」

片腕で抱く形に変えられ、今度は彼の掌が私の頬を撫でる
ふわふわとした幸せな気分に包まれた

「俺がいくらでも抱えて走るから、一緒に行きませんか」

それはきっとあの時遮った言葉
夢だからと聞かなかった、叶わないと思っていた願い

「…私も一緒に生きたい」



これが恋かどうかなんてまだ知りたくない
私達はようやく夢の続きを見始めたばかりだから
手を取り合って、その先の光へ










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