残業命令を下した上司をこれほどまでに憎んだ日はなかった。 それでも文句を言っていても残業は消えたりはしないから一向に帰れない。ああどうしようか、今日は、大切な日なのに。
スーツのポケットに入っている四角い箱に触れる。ベルベッドの感触に、安心と焦り、そして鳥肌が立ちそうなほどの昂揚が押し寄せてきて、堪えられなくなって口許を緩めた。(喜ぶ、だろうか) 気持ち悪いぞとからかってくる同僚に、丸めた紙を投げ付けるとようやく仕事に取り掛かった。 日にちが変わる一時間前、疲れた表情で比較的人の少ない電車に滑り込むと、片手で吊り革をつかみながらもう片方の手をポケットに突っ込んであの柔らかなベルベッドの感触を確かめる。さあ、どうやって切り出そう。何て言えば上手く伝わる。前々から温めていた言葉はたくさんあるけれど、どれもこれも今日という日にはそぐわなくて、語彙の少ない自分が酷くもどかしく感じた。 そうして気付いたら降りる駅をとうに乗り過ごしていて、予定していたよりもかなり遅れた到着。(ああ俺は馬鹿か)
夜なのにこの蒸し暑さはなんだろうか。駅から全速力したせいでワイシャツはもはやびしょ濡れだ。 ネクタイを緩めながらポケットの四角い箱を確認すると、意を決してインターホンを鳴らす。返事はない。
(これで寝てたら笑えるな)
汗を拭いながら携帯を取り出す。 さあ、一世一代の大舞台だ。
いつか王子様が、
(ただ一人に設定したメロディ)
2009-06-08
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