境征参加 | ナノ
織田にやってきて七日目の朝は、少し騒々しかった。
朝から部屋の外からぱたぱたと人が通り抜ける音や、静かな会話が聞こえてくる。何の会話か聞き取れはしなかったが、その声の雰囲気から、何事か起こったようである。
その異変の理由が分かったのは、朝餉をもそもそと食べている最中であった。
「名前、入りますよ」
声に形があるならば、ぬるりとした光を帯びているだろう。
その声の主は、名前の返事も聞かずに格子の扉を開けた。がちゃり、と錠の上がる音がした後、中からは決して開かないようになっている扉から現れたのは、昨日散々部下の愚痴を名前に聞かせた明智光秀であった。
相手が食事中でも、光秀の様子は変わらなかった。しかし、今日はどことなく機嫌が良さそうである。瞳がらんらんと異様な光を放っている。
その様子を見て、名前はなんとなく今起こっている出来事を察したが、租借していたものを飲み込んで光秀に尋ねた。
「どうしました、明智さん。なんだかとても楽しそうですね」
薄く笑みを浮かべる光秀に「楽しそう」と言えるのは、毎日彼の話を聞いて、様子を観察していたからだ。初対面であればその異様な雰囲気に身の危険を感じていただろう。
「おや、よく分かりましたねぇ。そうなのですよ」
膳の載っている台の向こうに座した光秀は、愉快そうに続ける。
「ようやく! 信長公がお戻りになったのです!」
ハァア! と興奮のあまり吐息を漏らす光秀を気持ち悪いなぁと思いながら「そうですか」と茶を飲む。対応も慣れたものである。
織田信長の帰還。
それは彼女にとって死刑の執行日と同じ感覚であった。じわじわと不安や恐怖が胸からせり上がってくるが、表面に出さないようにこらえた。
そのことに気付いたのか気付いていないのか、光秀はにやりと口を歪めた。
「怖いでしょう? 恐ろしいでしょう? どうぞ、泣きわめいてもいいんですよ」
「いや、しませんよそんなこと」
「ええ、どうして?」
「そんなことしても、明智さんが喜ぶだけじゃないですか」
「おや、私のことをよく分かっていますねぇ。つまらない、私はそれを見に来たのに」
悪趣味なことを言って、本当につまらなさそうな顔で彼はその場に寝ころんだ。自由な人である。
「怖いのは、怖いですよ。今だって手が震えていますし」
そうやって、手を彼に見せる。小刻みに震える手を、光秀はつまらなさそうに眺めた。
でも、と名前は続ける。
「ここに来たのは、半分くらい自分の意志ですし。仕方ないです」
光秀に佐助を殺されそうになったあの時。織田に行くことを提案したのは他でもない自分だ。その時から、こうなることは予測していた。
「武田にいる時から、織田信長の人となりは聞いていましたし。命乞いしても無駄かなって」
「……まぁ、そうですねぇ」
無駄でしょうねぇ、と呟いた光秀は、さきほどまでの表情とは違って、今は真顔だ。
「名前」
「はい」
寝ころびながら発せられた静かな声に、思わず返事をする。
「せいぜい、自分の有用性を示すことです。公は、有用であるなら手元に置いておくでしょう」
「え……?」
(アドバイスして、くれた……?)
これまでのやりとりで、光秀の考えていることや性格などおおよそ分かっていた。
人のためには決して動かない。自分の快楽だけを追求する人間だと思った。
目と耳を疑うような発言に驚いている彼女に、光秀は続ける。
「私の話を聞いてくれる相手が一人減ってしまうじゃないですか。それは少し、つまらない。
まぁ貴女の死に顔にも興味があるので、もしそうなったら是非私の名を伝えておいてください」
その時は、なるべく苦しまないように殺してあげます。
「……残念ながら、もう殺してほしい相手は決まっておりまして」
「おや、残念。私なら鎌の一振りで終わらせてしまえるのに」
「すみません。先約ですので」
「仕方ありませんねぇ」
くつくつと笑みをこぼす光秀をじっと見ながら、彼女もまた、少し笑みを浮かべた。
手の震えは、いつの間にか消えていた。
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